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日記

京都人は親切が嫌い

京都人は、親切にするのはもちろん、親切にされるのも嫌い。

その理由は、親切の見返りを求められるから、というわけではない。京都人は互いに嫌味や嫌がらせが大好きなのを知っているから、相手の親切の裏を読まずにはいられない。

  • 恥をかかせて喜んでいるのではないか。
  • 自分を良く見せようとしたのではないか。

などと思うのだと、わたしは想像している。わたしが親切にしてもあからさまに「迷惑そう」な態度を取る。礼すら言わない。言葉を発しない。

誰かがバスで物を落としたとする。だれも拾わない。たとえ足元に転がり込んでも、知らん振り。しっかりじっくり見るけど、見ない振りをする。

この習性は、まさしく「習性」と呼ぶべき性質は、子どものときから育まれている。

バスで杖をついて乗るわたしを「しっかり見た」座っている小学生がどういう態度を取るか。

(わたしには「小学生が座っている」という事態が信じられないが、座っているし、座りたがるし、杖をついた人や高齢者に譲ることもない)

目を逸らすのである。二人掛けの座席に一人で座り、横にカバンを置いていても、窓の外を眺める。

わたしが近づいても当然無視。

「譲ってもらってもいい?」

とお願いすると、しぶしぶ、のろのろとカバンを膝に載せる。

先に降りるときも、「早くどけ」とばかりに急かす。完全に停車するまでは動けないから「ごめん停まるまで待って!」とお願いするのだが、とにかくカバンを脚を突き出して急かす。当然声は無い。単に態度で示すだけ。

こんなに嫌がらせが好きなのに、どうやったら生活が成り立つのだろう? 人生が楽しめるのだろう? と不思議に思う。

そう思って見ていると、どうやら「いつも顔を合わせる人」に対してはそれなりに気を遣うようだ。そういう人もいるようだ。

「DVするパートナーにも良いところはある」という話と同じだと思うので、評価に値しないし、かえって悪質な印象操作にしか見えないが。

……京都は住むところではないです。悪意にばかり遭ってストレスが溜まって、京都ごと嫌いになるだけです。たまに来て花や紅葉や仏像を見て帰ってください。

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