二宮尊徳(二宮金次郎)はその昔、こう述べたという。
道徳なき経済は罪悪である。
経済なき道徳は戯言である。
的を射た言だ。大金を稼いで私服を肥やし、他人を貧しくさせるのはよくない。かと言って、何ら金を持たず理想だけを語っていたところで、空論に終わるだろう。
わたしはこの言葉を知った時、「我が意を得たり」と一度は思ったものの、すぐさま、現代にはそのまま当てはめられないことにも気がついた。
道徳家が貧乏なのは現代でもよく見られる。しかし、少し金があっても社会運動が続いてゆかない場面を、よく目にした。
元気がないからだ。
「意見が異なる場合には、議論が大切だ」と人は言う。しかし、そう言いたがる人ほど、相手を言葉で打ちのめし、言い負かすことにしか関心がない。議論を重ねて落としどころを探る粘り強さがない。自分の心身を守るために、いち早く相手を黙らせる必要があるのだ。
元気がなければ、議論を重ねて強い集団を組織することなど、到底適わない。
そこで、不遜ながら、二宮尊徳の言にひとつつけ加えたい。
「健康なき道徳は無力である」と。
「健康である」と書いたが、これは身体障害者が健康でないという意味ではない。青い芝の会が路線バスを止められたのは、それだけのエネルギーを持つ個人が集まったからだ。一方で、五体満足でありながらデモ一つ打てない人々のなんと多いことか。
健康とは、手足が自由であることとはあまり関係がない。身体活動を統御する力―燃えさかる火のような力が備わっていてこそ、健康といえる。
ここからは中医学の話になるが、中医学では、精神活動も臓腑に由来するとみる。意志に関わる臓腑に失調があれば、人は意欲を損なう。たとえ手足は不自由でなくても、生活に不自由を来すようになる。
したがって―社会を変えようと志すものは、すべからく健康にこだわらなければならない。SNSで高邁な説をいくら唱えても、外に出られなければ、隣人を慰める以上の力にはならない。無関心な人々を動かすには、元気でなければならない。
健康を求めることは、障害者差別にはならない。正しい仕方で治療を施してもなお治らないもの、治しようがないものを障害者と呼ぶべきであって、正しくない仕方で治療を施され、誤って「不治」と宣告されたものには、健康になる余地があるとみるべきだ。
絶望のあまり「健康でなくともかまわない」とさえ言いつのる人が時々いるが、額面通りに受け取る必要はない。西洋医学が嘘をついていることを知らせてやればよい。患者には治る権利があり、医師には治す義務がある。医師は、治したいとその人が言ったとき、手を差し伸べてやれるよう備えておこう。