ひとかど

▼登場人物
・久保香織/くぼかおり
 二十四歳。四大卒。

・真央/まお
 二十四歳。四大卒(香織と同じ大学)。香織の友人。左足のくるぶしから下がない。

・麻美/あさみ
 二十五歳。四大卒(香織と同じ大学)。香織の友人。

・明珠/ミョンジュ
 二十四歳。四大卒(香織と同じ大学)。香織の友人。

・オティ(オティエノ。「夜」の意)

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▼ひとかど

 1

 不採用の通知は、人生の不愉快な事柄のうち、第一位ならずとも三位以内には入ろう。今朝ポストに投函されていた薄い封筒を、開けもせずに真ん中で破ってごみ箱に投げる。この一ヶ月、何度となく繰り返してきた動作だ。いつものこととは言え、慣れることはない。学生時代から使い込んですっかりぺしゃんこになった布団の敷かれたベッドから、勢いよく起き上がる。コーヒーを淹れるために。
(どうして不採用ばかりなんだろう)
 幾度となく繰り返した自問自答を再度頭の中でめぐらせる。まだ若く、大学を出てすぐに入社したデザイン会社ではフォトルームのスキルを身につけた。去年失職した理由は、社長が資金を使い込んだ結果の倒産だ。わたしのせいではない。
 お湯を沸かす傍ら、ドリップの準備をする。オーソドックスなペーパードリップだが、学生の頃から凝りに凝って研究を重ねた。その結果が洗練された手順となんとなくおいしい気がする味というのはあきれるくらい素人くさいが、自分では満足していた。新鮮な豆とミル、適切な時間の蒸らしと適切なペースの注ぎ、そして湯の量。少しの知識に裏打ちされた研究の成果が醸す香りが鼻孔を満たすと、その素人くささとは裏腹に、味を連想させて気分を入れ替えてくれる。
 ドリッパーを片付けて、コーヒーをポットからカップに注ぐ。一口つけて味を確かめた。まずまずの出来だ。しかし、香りも味も十分に愉しむ余裕を与えず、不安が襲ってきた。このコーヒーが、大好きなコーヒーが、わずかな失業手当を削っている。不愉快な事柄の第一位だ。失業手当はもらっているが、以前の暮らしをそうそう変えられるものではない。
 熱々のカップをテーブルに置いて、香織(かおり)は再びベッドに横たわった。ベッドと布団は、買い替え時をとうに過ぎている。同程度のものであれば値段は知れたものだが、買い換える気にはなれなかった。稼いでいるうちに買いたいと思うのは真面目すぎるだろうか。収入が十分あるうちに寸暇を惜しまず買い換えることに費やせばよかったと、香織は後悔した。あの時は忙しかった、仕方なかったと言い訳したところで、布団はふっくらせず、ベッドがきしまなくなることはない。
 ため息を一つついて起き上がり、コーヒーに手を伸ばした時、部屋のチャイムが鳴った。だれが来たか、確かめなくともわかっていたので、まだ温かいコーヒーを一口飲んでから、廊下を抜けてドアに向かった。念のために覗いたドアの穴には、よく見知った顔があった。香織は鍵を開けた。
「ようっ」
 自分でドアを開けて入ってきたのは、ちょくちょく顔を出す友人の真央(まお)だ。平日は夕方まで働いているが、今日は土曜日で仕事は休みなので、この時間に来たのだ。
「おはよう。コーヒーあるけど飲む?」
「飲む飲む! ありがと」
 真央は杖を置いて玄関に座った。真央が靴を脱いでいる間に、香織はポットに残る一杯分をカップに注いだ。
「ちょっとぬるいかも」
「いい、いい」
 真央が立ち上がるのを待って、カップを渡す。真央はひと口飲むと、満足そうに頷いた。
「ちょうどいい熱さだ」
「そう? ならよかった。味は?」
「うまいよ」
「ありがと」
 短く感想を言うと、真央はマフラーを外し、ダウンジャケットも脱ぎつつ、部屋の奥に進んだ。香織はそれに続いた。二人は座布団にあぐらをかいて座った。
「昨日の夜に行ったバーなんだけど」
 真央はダウンを床に置くと、楽しそうに話し始めた。
「たまたま隣に座ったやつがさ、オレに言ったんだよ、キミかわいいねって。長い間ヤッてないし、たまにはヤるのもいいかなって思ったんだけど、疲れてたから連絡先だけ聞いたよ」
「へえ」
「いつ会おうかなあ」
 コーヒーをすすりつつ。
「三人で会ったらどうだろう。香織の気分転換に」
「なんで。話がややこしくなる。と言うか、二人で会いたいんじゃないの? 向こうは」
「冗談だよ。それより、お昼は何食べたい? オレはごはん系」
「わたしは魚かな。寒ブリがいいけど、高いかな」
「いいね。そうしよう。二人で割ればちょうどいいよ」
 昼前に会えば、昼ごはんの算段を立てる。二人の休日はこうして始まる。とは言え、香織の方は毎日が休日のようなものだが。
 二人はさっそく身支度をして、スーパーへ向かった。香織はノーメイクだが、面接に出かけるわけでもない。
「そう言えば、仕事の方はどうだったんだ? ダメか?
 スーパーに向かう道すがら、真央は訊いた。
「うん」
 若干の間を置いて。
「まあ、うまくいくよ。職探しなんて運みたいなもんだ」
「それは知ってる。それにしても運が悪すぎる。もう一ヶ月だよ。こんなに見つからないってことある?」
「大丈夫」
「何が」
 香織が睨む。
「デザイン会社で二年働いた。まだ二十四だよ。やっぱりわたしに何かあるんじゃ」
「ない。スキルがあるんだから、そのうち見つかるって。オレだって二十四だけど、スキルなんかない。事務みたいなことしてるけど、何か身につくわけじゃない。それに比べたら、ずっといいよ」
 香織は黙り込んだ。職探しで一ヶ月見つからないのは、長いのだろうか、それとも短いのだろうか。もうすぐ十二月。年末に入れば職探しは一層厳しくなる。飲食店は書き入れ時に向けて「急募!」でも、デザイン会社の求人はそれに比して目立たない。地方都市の暮らしは、学生の時に夢見た輝きを失っていた。学生の頃からの友人たちは働き盛りで、自分とは収入が合わず、遊ぶにしても気軽には遊べない。鬱屈した気分をさらに落ち込ませる要因のひとつだ。
「誰かに会いたい」
 唐突に、香織はつぶやいた。
「やっぱりそうだろ? オレばっかりじゃな。オレ以外の誰かに会ったほうがいい。遊んだほうがいい」
 真央はずっと案じていた。この一ヶ月間、求人に応募しっぱなしなのだ。香織は真面目すぎると真央は思っていた。親しくなってから五年ほど経つが、香織がはめを外したところを見たことがない。大学で履修登録した科目にはすべて出席していたし、泥舟だったデザイン会社の苦境にも最後まで付き合った。酒は飲んでも決して飲まれず、煙草はもちろん吸わない。女の気配も男の気配もまったくない。好かれてはいたようだが、浮いた話はついぞ聞かなかった。
「でもみんな、忙しいし」
「香織は真面目すぎるんだよ」
 率直に真央は言った。
「誰か誘って、遊んでこいよ。だれだっけ、よくいっしょにいただろ? ミサだか味噌だか…」
「麻美(あさみ)。ミしか合ってないし。味噌もひどい」
「ごめんごめん。そうだ、麻美だ。会おうと思えば会えるだろ」
「会えるけど…」
 真央は、麻美が香織のことを好きだったことを思い出していた。麻美から「間を取り持ってほしい」と言われたこともあるし、何とかくっつけようとしたこともある。しかし、香織にはまったく通用しなかった。行間を読むということができないのだ。直球で「麻美が好きだって言ってるぞ」と伝えてやれば少しは違ったかもしれない。「友だちとしてでしょ」と切って捨てる様が目に浮かんで、当時はしなかったのだ。
「いいから。そんなんじゃ採用どころじゃないぞ」
「わたしは笑顔だよ、面接の時は」
「そういうことじゃなくてさ。職探しも息切れするぞ。いいから。行って来い」
 真央は念を押した。デザイン会社から引きずり出せなかった時のことを思い出した。バカ正直に「勤め上げなきゃいけない」と言う香織を助けてやれなかった。友人として、今度こそ助けてやりたかった。
「…わかった」
「ケチるなよ? イン・ジ・イエローに行って、食いたいだけ食え。プルにも寄ればいい」
「プルは余計」
「そうか。プルのスクリュードライバーは濃くて好きなんだけどな。まあいいや。行って来い」
 香織は引き結んでいた口を緩めた。
「うん」
 香織がまた真面目に決め込むのを見てため息をつきながらも、真央は安堵した。
 ブリの煮付けを食べ終えると、真央がお茶をすする横で、香織はさっそく麻美にメッセージを送った。
『麻美、久しぶり! 元気? わたしは会社が潰れちゃって仕事探し中…』
 香織が画面を見つめていると、意外にも、すぐにメッセージが返ってきた。
『香織! 久しぶり! わたしは元気。それより大丈夫? 落ち込んでない?』
 香織は、友人の気遣いに胸がつかえた。こらえなければ、今にも涙がこぼれそうだ。
 感情のままに言葉を接ぎそうになるのを必死で押さえ込んで、返事を送る。
『大丈夫だよ! ごはん食べに行かない? たまには誰かに会わないと息がつまりそう』
 こんな時すら固い言い方しかできない自分を恥じた。とは言え、どんな言い方をしようと、麻美が相手ではすべて見透かされるだろう。
『元気ないでしょ。ごはんでも何でもいいから会おう。今日は時間ある?』
「オレなら大丈夫だよ」
「見てたの!?」
 香織は画面を隠しつつパッと振り向いて、目で抗議した。真央は「ごめんごめん」と両手を振って謝った。
「どうなってるか心配でさ。返事が来てよかったな。もう見ないよ。ほら、オレも昨日のカレにメッセするから」
 真央は後ろを向いた。確かに画面をいじっているのを確認して、香織は返事を打った。
『あるよ! どこで何時に会う? 市駅の前でいい?』
『いいよ! 一時間後でいい?』
『うん。じゃあ一時間後』
 会話は終わったと思ったが、返事があった。
『香織から誘ってもらえて嬉しい! じゃああとでね!』
 不採用に次ぐ不採用のせいで何の価値もないように感じられていた自分の誘いが歓迎されていることを知って、香織は安堵した。同時に、涙が流れているのに気づいた。その様子を、真央は目を細めて眺めた。うまくいったようだと胸をなでおろす。真央はメッセージを送るふりをしただけで、その実こっそり香織の横顔を眺めていたのだ。何と言うこともない、旧友に連絡を取っただけのことを大げさにできるのは、香織のいいところだ。
 香織が顔をぬぐって、そっと振り返った。
「一時間後に市駅で会うことになった」
「そうか。よかった」
「何がよかったの」
「オレは香織がつらそうにしてるのを見るのがつらいんだ」
 香織は真央の目を見つめた。
「真央、優しいね」
「知らなかった? オレは優しい」
「図に乗らないで。さあ、支度しなきゃ」
 ふざける真央を尻目に、香織はせわしく支度を始めた。真央は立ち上がった。
「じゃあ、オレ行くよ」
「ありがとう、真央。感謝してる。遊んでくるね」
「ああ。行って来い」

 今日何回行って来いって言ったか数えつつ、真央は杖を拾って部屋を出た。カレに会うなんて嘘っぱちだ。声をかけてくる男のほとんどに関心は持てなかったし、昨日の相手もそうだった。女の外見をしている相手といる方が真央は楽しかったし、香織もそのひとりだ。香織の素直でひたむきな姿が人として好きだった。無闇に恋愛を求めたりしない姿も魅力的だった。いつまでもこうして会えたらいいなと思う。会えなくなったら寂しいだろうが、その時はその時だ。
 昼を過ぎた空は、寒さを感じさせないほどの明るさだった。

 2

 麻美は、ずっと香織のことが好きだった。いわゆる一目惚れだ。十九歳の時、大学の最初のオリエンテーションで見かけてから、ずっと。ふっくらした頬にショートヘアがよく似合っていた。一見気の強そうな瞳に憂いや慈愛を見出した時などは、密かに感情を高ぶらせた。抱きしめたくなる衝動を抑えるのに苦労したことも、その先のことまで想像したことも数知れない。共通の友人である真央に取り持ってもらうとしたこともあったが、そんなに簡単にことが運ぶはずもなかった。卒業とともになんとなく連絡が取りづらくなって、それきりだった。あきらめていたとは言え、折に触れて思い出しては、どうしているか気にかけていた。同僚にも好みはいたが、香織には遠く及ばなかった。
 あきらめかけた気持ちを抱えながらの生活に、香織からの連絡が届くとは思ってもみなかった。夢のようだ。
 一時間は短すぎた。はやる気持ちを抑えきれずにそう言ってしまったことを後悔した。香織に気に入ってもらえる服は、メイクは、香りはと頭をフル回転させる。当時「いいね」と言ってもらえたメイクと香水はそろえていたが、服はそろえてなどいない。
 何とか形になった頃には、一時間経っていた。
『ごめん! 遅れる! 二十分くらいで着く!』
 慌ててメッセージを送った。厳選した靴を履いて家を出たところで、返事。香織の寛容さに感謝しつつ、市駅に急いだ。
 市駅へは、バスで行く。乗っている時間は十分ほどだ。
 市駅に着くと、「いつもの場所」へ急ぐ。香織が「そこ」に立っているのは、すぐに見つけられた。行き交うひとの群れがひときわ集まる、よく知られた待ち合わせ場所から少し離れた、花壇の前だ。花壇の前には三人がけほどのベンチが置いてあるのだが、休日は人が多いため、座ることはできない。人混みの中心部で落ち合うのは、片方が遅れた場合には―遅れるのは必ず麻美の方なのだが―つらいものがある。そのため、その場所が良いのだ。
「香織、待たせてごめん!」
 麻美は小走りに駆け寄った。すでに麻美を見つけていた香織も歩み寄ってきた。二年ぶりの香織は、相変わらずのショートヘアだったが、頬はほんの少しやつれて見える。腰回りと足は細く引き締まっていて、二年の月日を感じさせなかった。
「いいよ。それより懐かしいね。三回に一回は遅れてたよね」
 香織はやや疲れた印象の頬を上げて懐かしんだ。麻美は頬を寄せた―い衝動を殺した。
「思い出させないで。それより、どこに行こう? ごはんにはまだ早いし」
「早く会いすぎたね」
 二人は吹き出した。表情はそのままに、麻美は提案した。
「お茶しよ! 話そう」
「そうだね。話さなきゃ」
 周囲に喫茶店はいくらでもある。どの店にも思い出がある。今はその思い出を共有できる相手がいる。麻美は胸を弾ませた。
 喫茶店を二、三軒は回ることを覚悟した二人だったが、運良く一軒目のカフェ・ローズマリーに二人分の席を見つけた。荷物で確保すると、二人は温かい飲み物を注文して、向かい合わせで席についた。相変わらずの革張りの席。初めて二人で来た時に座った席だと、麻美は思い出した。
 話題を探したが、なかなか見つからない。仕事の話は避けたい。仕事の話をすれば愚痴しかないし、香織の方は会社が潰れたせいでの失職だ。そんなことを話題にはしたくなかった。
 そんな内心をよそに、香織が静かに言った。
「ここ、よく来たよね。懐かしい。あの鳩時計もそのまま」
 レトロな趣のカフェによく合う、茶色の屋根付きの小屋を模した鳩時計が壁にかかっている。掃除が行き届いているようで、埃はかぶっていない。
「あはは、そうだね。あっ、鳩出てきた」
 小さな窓から鳩が出てきて、ポッポーと三たび鳴いた。三時だ。
「ねえ、真央は元気?」
「恋人はできた?」とは訊けなかった。一番尋ねたいことはそれだ。しかし、返事を聞くのが怖い。いないことを望む。
「真央なら、元気だよ。さっきも会ってた」
「あはは。そうなんだ」
「真央とは、相変わらず何もないの?」
 陰気な想像を振り払って、尋ねる。
「ないよー。何があるって言うの?」
「そうだよね。腐れ縁だ」
「そうそう。腐れ縁」
 真央は、麻美も親しくしていた。一度だけ肌を合わせたこともあるが、二人とも「二度目はないね」で一致した。ふわふわと柔らかい腹に腕を回すのは楽しくないでもなかったが、つまるところ、情熱が持てなかったのだ。真央は真央で「やっぱりセックスは楽しくない。二度としない」と言っていた。今は、若気の至りだと思っている。三人で会うときが一番楽しかったし、それは真央も同じだっただろう。
「香織も、元気そうだね。少し痩せた?」
「うん。会社が潰れたストレスで、少し疲れた」
「どうして潰れたの?」
「あとで知ったんだけど、社長が会社のお金を使い込んでたの」
「えー! ありえない」
「腹立ったよ」
「やり場がないよね」
「そうそう。それから仕事を探して…」
 香織の顔に陰りがないのを確認して、麻美は後悔を投げ捨てた。まさか「痩せた?」が会社の話題になるとは予想しなかったのだ。会社の話題を出したのは香織の方で、表情が暗くないのは救いだ。
「でも、なかなか見つからないんだよね」
「何系で探してるの? やっぱりデザイン系?」
「そうそう」
「よかった! 好きなもので仕事に就けたんだね」
「うん。そうなんだけど、次が見つからないことには」
「大丈夫! きっと見つかるよ。少し休めってことなんだよきっと」
 うまく励ませていない気がする。話題を変えよう。
「真央は何の仕事してるの?」
「事務なんだって。詳しくは知らないけど、パソコンで書類を作るとか、電話応対とか、そんなの」
「ふぅん」
「麻美は?」
「わたしもパソコン仕事だよ。インテリアとか服とかの写真を撮ってフォトハウスで画像加工してる」
「麻美もフォトハウス使うようになったんだね! あんなにパソコン嫌ってたのに」
「へへーん。二年もやるとね、相当なもんだよ」
 麻美はガッツポーズをした。心の中でも同様に。話題がそれたことを喜んだ。
 いつまで続くとも知れないとりとめのない会話。こんな時間がいつまでも続けばいいと、麻美は思っていた。

 頃合いを見計らって、二人は店を出た。腹時計が鳴りかねない時間だ。
 香織は、いいレストランを知っていた。そのレストランはよく混むので、予約を取ったのだ。歩いて行ける距離なので、二人は横並びになって、通りを歩き始めた。

 3

 料理を手に店内を眺める。進むべき方向を見定めて、テーブルを縫うように進み、目的地にたどり着いた。
「お待たせしました。カルボナーラのお客様」
「ありがとう」
「ごゆっくりお召し上がりください」
 声を上げた客の前に料理を置いて、一声添える。次の料理が待っている。
 オティは次から次へと、料理を運んだ。ひと段落したところで、二人連れが店内にやってきた。シャララとドアの鈴が鳴る。店内は満席だが、十八時にお越しのお客様がおられたはずだ。
「いらっしゃいませ。ご予約の方でしょうか」
「はい。久保です」
 ショートヘアのそのお客様は、わずかに会釈をした。
 素敵なお客様だ。
「久保様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
 うやうやしくお辞儀をしてメニューを手に取り、オティは窓際の席に二人を導いた。テーブルの上の「予約席」の札をつまみ上げると、椅子を引いて、二人を座らせる。
「お決まりになりましたらお呼びください」
 再度お辞儀をして、テーブルを離れた。そこに呼ぶ声がかかった。
「すみませーん」
「はい! ただ今」
 オティは黒く輝く体を伸ばして返事をし、笑顔でテーブルに向かった。
 今日は忙しい日だ。
 良い日だ。

 香織は、店員の姿に見惚れていた。熟練した店員のきびきびと動く姿は、ひとつの芸術にすら見える。
「ねぇ、何食べる? わたしはパスタがいいな。あとサラダ」
 自分への親近感をすっかり取り戻したことを示すように、友人はすでにメニューを開いて食い気満々だ。自分も開かれページを眺める。
「サラダなら、シーザーよりは海藻の方が好き。わたしはリゾットにしよう」
 指を指して、次いで料理を探す。
 互いに頼む料理を決めたことを確かめると、店員に合図をした。さっきの店員だ。
「お決まりでしょうか」
「はい。このリゾットとこのサラダと」
「このパスタをください」
 メニューを指差しながら伝えると、店員は伝票にすばやく書き込んで、注文を繰り返した。そしてメニューを下げつつ、
「失礼致します」
 足早に去っていった。去りぎわの笑顔がとても印象的だ。
 二人は店内に視線をめぐらせる。
「香織、予約取ってくれてたんだね。ありがとう」
「うん。今日はおいしいもの食べたい気分だったんだ」
「ここ、来たことなかったんだよね。いつも混んでるから」
「そうそう。絶対に予約しないと入れない。すごい待たされる。テラス席もあるけど、冬は寒いし」
 テラス席には暖かそうなストーブがいくつか並べてあるが、全体に暖かさが行き渡っているかどうかは疑わしい。店員の目からも遠く、十分なサービスは得られないだろう。テーブルもいくつかあるが、すべては埋まっていない。テラス席を忌避してあきらめる客がいるのだろう。
「雰囲気いいね、ここ」
「でしょ」
 麻美が、テーブルの上のろうそくから目を離して香織をまっすぐに見た。うっすらうるんだ目。学生時代も時々こんな目をしてわたしを見たことがあったことを思い出した。
「香織もかわいく見えるよ」
 そう言って麻美は微笑んだ。香織もつられて微笑む。そして、安心した。友人は昔のままの友人だ。なぜ今日まで連絡を取らなかったのだろう。忙しかったからだ。麻美だけでなく、ほかの友人たちにも、連絡が取れなかった。取る気になれなかった。
 香織は後悔した。二年間を取り返したい。ほかの友人たちにも会いたい。

「好き」と言ってしまえば楽になれるかどうか、麻美は量っていた。言うだけでは満たされない。少なくとも、「友だちとしてではない」と伝えたい。
 微笑んだ香織を見て、心から「かわいい」と思った。もとより、かわいくない表情などないが、笑顔に勝る魅力的な表情もまた、ない。
 ところが、ふと香織は目を落とした。そしてぽつりと言った。
「ミョンジュはどうしてるかな?」
 ミョンジュというのは、学生時代の共通の友人の名だ。
「ミョンジュは…どうしてるだろうね。教師にはなれたみたいだけど…。最後に話した時は、すごく忙しいって言ってた」
「教師になれたんだ! よかった。ねえ、連絡先知らない? 会えないかな?」
「連絡先なら知ってるけど、わたしもしばらく連絡は取ってないから、会えるどうかはわからないなあ」
「会おう会おう! 会いに行こうよ」
 香織の様子を見て、裏に真央の気配を感じた。麻美が問いかけようとすると、
「お待たせしました。海藻のサラダでございます」
 背後から現れたのは、例の店員の腕とサラダだった。テーブルの真ん中にサラダと二枚の取り皿を置いて、店員は去っていった。
「…サラダ来たね」
 麻美は気勢を削がれた。
「うん。食べよっか」
 そう言うと、香織は自分の分を取り皿に盛った。麻美もそれに倣う。
 何口か口に運んだところで、麻美はあらためて尋ねた。
「真央に何か吹き込まれたの?」
「何の話?」
 香織は手を止めた。顔に疑問符を浮かべている。
「さっきの話。急にわたしに会いに来たり、ミョンジュに会いたがったり。そんなアクティブな香織、見たことない。だから、真央が何か…アドバイスしたのかなって」
 ふさぎ込んでいた香織が自分から行動を変えることなど、およそ考えられない。誰かが何か言わなくては。きっかけがあるとしたら、真央以外にない。
「アドバイス…アドバイスをくれたわけじゃないけど、ヒントはもらったよ。こうやって麻美に会ったら、気分がすっきりした。だから、きっと、わたしは誰かに会ったほうがいいって思ったの」
「へえ。会う、ねえ」
 麻美は、自分が当て馬にされたように感じて、寂しくなった。言うまでもなく、自分の片思いのせいだ。自分のことを見てほしいと思うあまりに生まれた独占欲。
 つまらない性分だと思う。他のひとを好きになって、気持ちを分散できたらいいのに。浪人生時代の予備校の友人のように。「二股じゃない関係」について熱く語っていたのを思い浮かべる。自分にはあんな器用なことはできない。いや、器用とは違う。わたしと同じように抑えきれない気持ちを抱えながら、ひたむきに自分と好きな相手に向かい合っていたのだ。
 もしくは、と、別の顔を思い浮かべる。真央だ。真央は恋愛が要らない性分だ。こんなに重たい気持ちを抱えるくらいなら、いっそ捨てされたらいいのに。
 とは言え、そんなふうに行かないのがいいのかもしれない。これがわたしなのだから。
「会うのは、いい考えだね。二年経っているから、みんな少しずつ変わっているはずだし。会えば新しい物の見方ができるようになるかも」
「そうなの。二年間を取り返したい。働いてスキルは身につけたけど、他の大事なことを置き去りにしてきたと思うんだ。一ヶ月間ずっとへこんでたけど、失業手当はまだまだもらえるし、もらえてる間に少しでも、誰かに会いたい。友だちでも、知らない誰かにも」
 香織の輝いている目に、麻美はまたしても心を奪われた。しかし、それ以上に晴れやかな気持ちになるのを感じた。好きな相手には、暗い顔より明るい顔をしていてほしい。明るい未来を見ていてほしい。
 思いをちゃんと打ち明けられる時は、また来るだろう。こうして会えたのだから、きっとまた会える。
「お待たせしました。リゾットとパスタでございます」
 二人の前に、熱々の料理が並べられた。
「来たね! 食べよう!」
「食べよ食べよ!」
 分け合いながら食べる間、麻美は、香織が新しい世界に触れることで、二人の間にどんな変化をもたらすかを考えていた。具体的には、自分に好意を持ってくれるようになるかどうかだ。たとえば、バイセクシュアルの世界。人を愛することに、性別の制約がない世界。もしそんな世界を見てくれることがあるのなら、わたしの好意にも気がついてくれるかもしれない。その時にちゃんと言えば、成就するかどうかは別としても、意図は通じるだろう。
「ミョンジュの連絡先のことだけど」
 麻美は切り出した。
「わたしが今メッセージを送ってみる。連絡が取れたら、会いに行こう」
「ありがとう!」
「ちょっと待ってね」
 麻美はスマホを取り出すと、ミョンジュの連絡先を探した。少し考えて、メッセージを送った。
『ミョンジュ、ひさしぶり! 長いこと会ってないけど、元気してる? いま香織といっしょにいて、ミョンジュに会いたいなって話してたの。お仕事いそがしい? もし時間が取れそうなら、会おう!』
「送ったよー」
 麻美が画面を見せると、香織は嬉しそうに言った。
「ありがとう。返事が来るといいな」
「そうだね」
 香織の無邪気な笑顔を尻目に、麻美は、この出会いが自分たち二人の新しい関係につながることを願っていた。
 ほどなくして、返事は来た。
『元気だよ! 懐かしいね。香織もいっしょなんだ。会いたいな。時間ができたら連絡するね』
『うん、待ってるね』
 麻美は返事を打つと、香織に画面を見せた。
「会ってくれそうだよ!」
「やったあ!」
 香織は屈託なく笑った。「ああ、やっぱり笑顔はいいな」と密かに麻美は思うのであった。

 今晩のイン・ジ・イエローも、静かなようで騒がしく、騒がしいようで落ち着いている。内装がそう感じさせるのだろうか。それとも、ホールに身を置く自らの心情を投影しているからだろうか。
 ふと、テーブルのお客様が合図するのが見えた。ショートヘアの方だ。目で応じて、テーブルに向かう。
「お会計をお願いします」
「承知しました。テーブルでお待ちください。伝票をお持ちします」
 カウンターで手早く計算して金額を書き込む。テーブルに戻り、伝票を手渡した。
「お会計はレジで承ります」
 短く言って、その場を去った。次のお客様が待っている。

 4

 このくたびれたシャツとも、おそらく今日限りだ。明日からはいわゆる「男」の姿を「やめる」。
「さて…と」
 独り言とは不思議なもので、何を言おうか決めてから言うものと、口をついて出るものとがある。今のは前者だ。
「何を着ようかな」
 部屋は、決して整然としているわけではない。しかし、散らかっているわけでもない。他人がどう感じるかはわからないが、少なくとも自分ではそう思っている。
 衣装ケースから長袖のシャツを出して、袖を通す。着慣れた服だが念のため姿見で確認する。いつもと同じく見栄えの良く、代わり映えしない自分の姿が写っている。
 明日からはガラリと雰囲気を一変できるのだから、外見はおもしろい。
「人間、こうでなくちゃね」
 人間というのはしかし、因果なものだ。社会から自由に解き放たれて生きることは、ほぼすべての人間にとって非常に困難だ。そのせいで、たとえば身だしなみを整えたり、金を稼いだりしなくてはいけない。髪を伸ばしたり切ったり、普段とは異なる声色を操ったり、特別な服を着たり、たばこを我慢したり、涙をこらえたり、怒りを押さえ込んだり。
 いや、動物であっても同じだろう。違うところもあるだろうが、今は考える気にならない。
 ジャケットを羽織ると、部屋を出た。階段を下りて、いるかいないか知れない家人に「行ってきます」と声をかけて、玄関を出た。
 日はとうに暮れ、すでに街灯がついていた。住宅街の路地を抜けて、ミョンジュは駅へ向かう。
 職場は家から地下鉄で二十五分ほどのところにある。駅までは五分ほどの距離で、全行程を合わせても四十分ほどだ。職場は繁華街から少し離れた、歓楽街にある。夜の街だ。
(今日で最後か…)
 二年も勤めた店を離れるのは寂しい。この仕事は好きだったし、お客さんも上客が多く、何より、話をするのが楽しかった。自分で決めたこととは言え、悔いの残る選択にしないように、次の職場では一所懸命働くつもりでいる。
 この社会では、「男の姿をやめる」ということは「女の姿になる」のと等しい。直截に言えば、「男をやめる」は「女になる」と等しいのだ。単に外見を換えるだけのことなのに、内実まで勝手に結び付けられてしまう。だから、自分は選ばされたのだ。この選択を。
 選ばされた? 本当に? 選んだのではなく? それとも、誰かから「自分で選んだんだろう」と責任を押しつけられている?
「やめよう」
 選んだ。いくつかの選択肢から選び取った。その先へ向かうために。次の、次のために。環境の変化には、いずれ慣れる。
 駅から、駅へ。そして店へ。いつものルートをたどれば、バー・メスクランドだ。
 雑居ビルの二階に店はある。扉の鍵を開け、開店準備を始める。
 さあ、最後だ。
 気を引き締めようとしたところで、
(ん? 何だろう?)
 スマホが着信を知らせた。仕事中は切っているのだが、店に着いたところなのでまだ切っていなかったのだ。画面を見ると、麻美からのメッセージだった。会いたいというメッセージ。
(懐かしいな)
 まだ教師をやっていたときに一度会ったきり、会っていない。こちらから連絡を取らなかったのは、今に至る姿を見せたくなかったからだ。教師になった頃から、自分の姿をすっかり変えてしまうようになったから。
 でも、今なら会えるだろう。
 返事を書くと、スマホをサイレントモードに切り替えた。
 さあ、仕事だ。

 バー・プルは、繁華街にあるイン・ジ・イエローから少し離れた、美園町にある。美園町にはバーやクラブ、あるいはよくわからない紹介所などが立ち並んでいて、まるで大人の世界の憂さ晴らしがひしめき合っているようだ。
 プルは、さらにその外れにある。イン・ジ・イエローだけで帰るのはもったいなく感じた香織が誘ったのだ。真央に連れられて一度行ったことがあるきりで、正確な場所を把握していなかったので、スマホの地図頼りだ。
「あっ。あそこ!」
 美園町を出る方向の路地を少し歩いたところにある二階建ての雑居ビルの下に、虹色のラインが入った看板が出ていた。ラインの下に「pulu」と書かれている。
「どんなお店かなぁ」
 麻美はわくわくしているようだ。
「実は、よく知らないの。真央が「ミックスバー」って言ってたけど、特に訊かなかったから」
「ああ、ミックスバーね」
「知ってるの?」
「うん、知ってる」
「…何がミックスなの?」
 もったいぶる麻美に問う。
「行けばわかるよ」
 香織が慎重に重い扉を開けて、二人は店内に入った。
「こんばんはー…」
「いらっしゃい」
 カウンターの向こうのボーイッシュな店員さん―香織には見覚えがある―が、挨拶に応えてくれた。どこのバーも同じだが、店内は薄暗かった。二、三歩踏み込むと、お客さんたちの顔が見えた。みんなこちらを見ている。
「おひさしぶり! 前に来てくれたよね?」
「あ、はい!」
 店員さん―マスターだろう―は、香織のことを覚えていてくれたようだ。
 あいていたカウンターの端っこの席に座った。他のお客さんのちょうど反対側だ。座ってみてわかったのだが、カウンターの向かい側にも席があった。
 マスターは「はい」と言いつつ、前にコースターを置いてくれた。
「何飲む?」
 香織は忘れていたが、マスターはこのあたりのひとではない。イントネーションは間違いなく関西弁だ。
「何にしようかな…」
「メロンボールください」
 迷う香織を横で、麻美は好きな飲み物を注文した。
「じゃあ、ジントニックを…」
「はいはい~」
 なんとなくマスターを手際を眺めていると、麻美が言った。
「実はミックスバー初めて来たの」
「あっそうなんや!」
 耳ざとく聞きつけたマスターが、大げさに応えた。
「ええ。香織に連れてきてもらって」
「へえ。えっビアンさん? あっ、答えたなかったら答えなくていいけど」
 香織が口を開くよりも早く、麻美が答える。
「わたしはバイです」
「そうなんや。そちらは?」
「えっ…あ…あの」
 香織は言いよどんだ。
「バイって、何ですか?」
「あれっ」
 マスターは、カクテルを作る腕ごと、転んだマネをした。
「バイって言葉を知らんねや! それやのにまた来てくれたんか~」
「は…はい…」
「はいっ、じゃ、あーちゃん説明してあげて」
 マスターは、こちらのやり取りを眺めていた二人連れのお客さんに、話を振った。
「わたしですか!?」
 あーちゃんと呼ばれたそのお客さんは、苦笑いしながら説明を始めた。
「バイの説明…バイセクシュアルの略なんですけど…同性を好きになったり異性を好きになったり…あとは、性別関係なく人を好きになる人、のこと、かな」
「バイ…」
 香織はしばらく下を向いて黙った。言葉を噛み砕いているようだ。
「やんね。わたしはな、完ビやねん!」
 マスターが胸を張って言った。
「完ビ…」
「うん。完全にビアンってこと。あ、レ、ズ、ビ、ア、ン言わなあかんな。女の人が好きやねん」
 説明を終えると、麻美を手で差した。
「で…えっと…」
「麻美です」
「麻美ちゃん。麻美ちゃんはバイで、香織ちゃんやったっけ?」
 香織は頷いた。
「香織ちゃんは何? ヘテロ?」
「ヘテロって…」
「あ、ヘテロも知らん? ヘテロはな、異性愛者のこと」
 香織は新しい言葉の数々に目を白黒させている。
「香織は、異性愛者?」
 麻美がグラスを口から離しながら、いたずらっぽく尋ねた。
「うん、そう、だね」
 香織は、やっとのことでそう答えた。ジントニックをひと口、口に含んだ。
「あ、ほな、香織ちゃんたちは友だちなんやね」
「ええ」
「へえ~。てっきりカップルさんやと思った」
「残念ながら」
 麻美が不思議な返事をしたのを聞いて、香織は訝しんだ。
「残念ってどゆこと!? えっ! これ訊いてええの」
「ええ。好きって言ってもわかってもらえないんです」
「あっ、そうなん! それ…告白ちゃうの」
「そうですよ!」
「そんなん言っていいん!? 香織ちゃん大丈夫?」
 香織は何も言わずに、麻美の顔をじっと見た。
 ふと気がつくと、お客さん二人はまだこちらの様子を伺っていた。
「急に言われたら困るよなあ。麻美ちゃんこんなとこで言うたらあかんわ~。もっと雰囲気ええとこで言わんと」
「そ、そうですよね! 香織ごめん」
 香織は勢いよく首を振った。
「ううん! 大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」
 逃げるか、それとも目をそらすかするものと思っていた麻美は、あっけにとられた。
「でも…ごめんね。わたし、すぐには返事ができない」
 香織は目を伏せた。
「い、いいよ! ゆっくり考えて!」
 麻美は慌てて言った。
 遠くからマスターがゆっくり近づいてきた。
「お、終わった? 終わった?」
「…ええ」
 麻美が答える。飲み物の氷はずいぶん溶けてしまっていた。
「まだビアンもバイもヘテロも知らんうちから、エラいことになったねえ。でも、返事はゆっくりしはったらええからな! まあ飲んで行って。飲みづらいかも知れへんけど」
 笑ってそう言うと、マスターは別のお客さんの方へ行ってしまった。
「ごめん。やりすぎた」
 香織は目のやり場に困って、ずっと目を伏せていた。
 麻美も香織も、飲み物を数口飲んで、店を後にした。
 帰り道に会話はなかった。
 香織は、麻美が言ったことについて考えていた。
(麻美はきっと思い詰めてたんだ。ずっと。だからつい言っちゃったんだ)
「麻美」
 香織は麻美の横顔を見つめて、呼んだ。
 麻美はゆっくり振り向いた。
「ちゃんと、返事するから」
「…うん。ありがとう」
 それから二人は、別れる時まで無言だった。

「どうだった? 昨日は」
 真央が尋ねた。気になって、昨日に引き続き家にやってきたのだ。
「リゾットを食べたよ。麻美はパスタ」
「おお! そうなんだ。あそこのパスタは量もあってうまいんだよな。リゾットは知らないけど」
「あとね、ミョンジュに会うことにした」
「ミョンジュって、あのミョンジュ!? 懐かしいな。いいね。会ってこいよ。オレも会いたいけど、二人のほうがいいだろ」
「うん」
「オレはその後だな。よろしく言っといてくれ」
「うん。あとね」
 香織は一拍置いて、下を向いて短く。
「告白された」
「誰から?」
「麻美から」
「そうか」
「…驚かないの?」
 香織は尋ねた。
「オレは、知ってたからな」
「知ってたって、何を?」
「麻美が香織を好きだってことを、だよ」
「そうなんだ」
 香織はまた下を向いた。
「わたし、ちゃんと向き合いたい。どうしたらいいの?」
 しばらく考えてから、真央は返す。
「オレが「バイだ」って言われた時は、こう言った。「恋愛のことはわからない」ってな。オレはゲイじゃないし、もちろんバイでもない。ヘテロかどうかだって怪しい。だけど、麻美がバイであることは否定したくなかった。逃げたような答えになってしまったとその時は後悔したけど、今ではあんなもんかなって思う」
「参考にならない」
 香織は切って捨てた。
「わかってるよ。香織は自分が好きだって言われたわけだからな。オレはこう思う。もし断るなら、バイであることを否定しないでやってほしい」
「うん。そうだね」
 香織は頷きながら言った。真央は顔を覗き込んだ。
「言えそうか?」
「わからないけど、答えは自分で出すよ」
「そうだな。それがいい。香織なら、大丈夫だ」
 真央は、香織も麻美も、友人として愛している。ただ、心配はしていない。二人なら大丈夫だと信じられるからだ。二人なら乗り越えられる。香織がどんな答えを出そうとも。

 ミョンジュと会う日は、数日後のやり取りで一週間後に決まった。予定日は、「連絡が来た」という麻美のメッセージに書かれた連絡先を通じてやり取りし、決めた。麻美はわたしに会いづらいのか、自分は会わないと行ってきた。
「早く、返事をしなくちゃ」
 せっかく会えた旧友だ。ちゃんと向き合いたい。
 香織は一週間を気持ちの整理に努めることにした。もちろん、求人への応募も忘れずに。

 5

 ミョンジュは、職場に通うのと並行して、メイクと服の感覚を取り戻そうとしていた。二年間のブランクがあるためだ。なんとか形になったあたりで、香織たちに会うことにした。残念なことに麻美は来られないそうだが、香織にだけでも会いたい。自分の問題があったためずいぶん級友たちとは会っていない。
 本当はもっと髪を伸ばしてから会いたかったのだが、会いたい気持ちが先行した。髪型は、耳が隠れたくらいだ。あまり女性らしくはないが、ぎりぎりショートヘアで通用するだろう。
「うまくごまかせるといいけど」
 これまでのことを打ち明けるつもりはまったくない。教師をやめたとは言うが、現在の職に就いたことを言えば納得するだろう。
 それにしても不思議だ。自分でも。現在の自分など、二年前には想像も及ばない。あの時は必死だったのだ。男として認められることに。
 ところが、職場での出会いが自分を変えた。いわゆる「アクティビスト」だ。男という外見が意味することについて。自分の偏見について。男の姿をやめれば済むというものではないが、少なくとも自分は遠ざかりたかった。
 そして、以前の仕事がいつまでも続けられるものではないという現実も直視した。いつまでも続けようと思えば、独立するしかない。自分にはそのつもりはさらさらなかった。だから、長く勤められそうな進路を探した。そして見つけた。
 どちらの役割も引き受けないことが理想だった。現在の社会ではそれは叶わない。そんな社会になればいいが、自分が生きているうちには来ないだろう。もしそんな時が来たら、自分はどんな人生を選ぶだろうか。
 物思いにふけりながら歩いていると、待ち合わせ場所に着いた。待ち合わせ場所は、GMCというカフェだ。道路側はガラス張りで、中の様子が見える。香織の姿はない。奥の席に座っているのか、それともまだ来ていないのか。
 店内に入った。店員さんの挨拶を遠くに聴きつつ、香織の姿を探す。
(いた)
 柱の陰の席で、香織は本を読んでいた。文庫だろうか。学生の時と変わらないショートヘア。二年の月日を経ていたが、変化はわからなかった。
「や! 久しぶり!」
 声をかけると、香織は顔を上げた。
「ミョンジュ、久しぶり!」
 嬉しそうに目を細める。ミョンジュは向かい側の席に腰を下ろした。
「髪、短くしたんだね」
「あ、うん」
「よく似合ってる」
「ありがとう」
 短いやり取りを挟んで。
「いらっしゃいませ」
 さっそく店員さんがやってきた。
「お決まりになりましたらお呼びください」
 二人はさっそくメニューを開いた。
「ここはね、タコライスがおいしいんだよー。あとカレー」
「へえ、そうだんだ。じゃあ、タコライスにしよう」
「わたしはGMCカレーにする!」
 店員さんを呼んで注文する。ミョンジュはさっそく会話の口火を切った。
「会えて嬉しいよ。連絡が来た時はびっくりしたけど。二年くらいかな」
「そうだね。短いような長いような」
「どうしてたの? わたしは先生になったけど、辞めちゃった」
「えっ!? 辞めちゃったんだ。そっか」
「うん。仕事が多すぎてね」
 そう言って、ミョンジュは首を掻いた。
「わたしも、今求職中なんだー。会社が潰れちゃって」
 香織は苦笑いした。
「うわっ、それは、大変だったね…」
「うん。もう一ヶ月以上経つんだけど、見つからなくて。失業手当で食べてる」
「そうなんだ…」
 二人は互いの境遇を想像しつつ、言葉を探した。
「どんな仕事を探してるの?」
 ミョンジュが再び先に話を継いだ。
「えっと、デザイン系」
「あ、じゃあ、デザイナーにはなれたんだ!」
「いちおうね」
「前の会社も、デザイン系?」
「うん」
 ミョンジュは安堵した。そして嬉しかった。友人が、希望する業界に入れたと聞くと、自分も嬉しくなる。
「それなら、前の会社のスキルが役に立つね。平気だよ」
「うん。見つける」
 香織は思ったよりも落ち込んではいないようだった。よかった。
「麻美はどうしてる? よく会ってるの?」
「ううん。この間再会したところ」
「あっ、そうなんだ。何かきっかけがあったの?」
「うん。真央って覚えてる?」
「真央! 覚えてるよ。真央はどうしてるの?」
「真央なら元気だよー。時々会うんだ」
「そっかぁ。ついに付き合ったの?」
「違うよー。真央はそういうのに興味ないんだよ」
「そうだった。忘れてた」
 ミョンジュは、また首を掻く。
「で、わたしが仕事なくなって就職活動してたら、だんだん鬱になってきて。そしたら真央が、誰かに会って来いって」
「言ったんだね。人に会うのはいいね。気分転換になる。それで麻美に会ったんだ? 仲良くしてたもんね」
「そうなの。でも、二年間会ってなかった気がしなかった。昨日まで会ってたみたいで」
「そっか」
「それでね…二年間を取り返したいなって思ったんだ。ずっと仕事ばっかりしてて、プライベートをないがしろにしてた。息抜きしてなかったわけじゃないけど、何か足りなかったの。それを、見つけたような気がする」
 そう言って、香織は小さく頷いた。
「そうか。それはよかった。わたしはずっと人に会う仕事をしてたけど、子どもや親御さんばっかりだったから、世界は狭かった」
 これはほんとうだ。教師が身を置く世界の狭さに嫌気が差したというのが、辞めた理由のひとつでもある。
「そっか」
「お待たせしました。カレーと、タコライスでございます」
 料理を置きながら、店員さんが言った。
「ごゆっくりお召し上がりください」
 イン・ジ・イエローの店員さんとは違った、柔らかで親しみを感じる笑顔だ。
「うん、タコライスおいしい」
 さっそく手を付けて、ミョンジュは舌鼓を打った。
「でしょー。カレーもおいしいんだよ。ひと口食べてみる?」
「ありがとう。もらう」
「はい」
「あっ、おいしい。ちょっとだけ辛いね」
「うん。食べてると、だんだん辛くなってくる」
 二人はしばらくの間、食事を楽しんだ。
「あの頃はよくこうやってごはん食べたよね」
 ふと思い出す。頻度こそ多くなかったが、今となっては楽しい思い出だ。
「そうだね。牛丼屋さんとかね」
「あっはっは。そうだった。外食するにしても、お金がなかったからね」
「真央が杖で食券のボタン押したりして」
「してたしてた」
 思い出話はなかなか尽きなかった。二年の月日は、過ぎた時を否応なく思い出させる。わたしたちの関係は、学生だったあの頃には戻らない。だが、家は近い。また近いうちに会おう。
 ところで。
(もう一人の自分を明かすことは香織にとって「新たな出会い」になるだろうか?)
 答えの出ない問いだ。自分は明かしたくないが、明かすことで誰かに新しい世界を示すことができるのなら、明かすのも悪くないかもしれない。
(やめておこう)
 自分の心の準備が、まだだ。いつか、時が経てば、できる日も来るだろう。
 ミョンジュは、タコライスの最後の一口を飲み込んだ。

 6

 面接の結果を待っていた。手応えはあまりよくなかった。どんな好印象でも、縁がない時はある。今回も期待はしていなかった。
 果たして、その日は来た。一週間。面接の時に返事をすると言われた期限だ。買い出しから帰って来た時に、電話が鳴った。未登録の電話番号。何かの営業かも知れないが、出ずにはいられない。
『株式会社パル・ディセーニョですが』
『はい』
 香織の胸は高鳴った。こんな時、嬉しそうな声が出そうになるのを押さえ込んでしまうのはどうしてだろうか。そんなことを考えながら、次の言葉を待った。
『久保さんにはぜひ来ていただきたいということになりまして。来月からさっそく来ていただきたいのですが、ご都合よろしいですか?』
 紛れもない採用の電話だ。
『はい…! こちらこそ、よろしくお願いします!』
 今度は、力を込めて言葉をを返す。
『出勤は、十時です。労務契約を結びますので、印鑑も忘れずにお持ちください』
『はい。わかりました』
『それでは、失礼致します』
『失礼致します』
 相手が切るまで、切ることができなかった。喜びの余韻が、そうさせた。願っていた瞬間が、ようやく来たのだ。
 香織は、壁のカレンダーを見た。二週間ほどあるが、就職先が決まったので、職安にその旨を伝えに行こう。そして。
 もう少しで、もう一つの連絡もできそうだ。考えに考えた、その連絡を。

 仕事の合間に届いていたメッセージを見て、麻美は戸惑った。期待していた、思っていたよりも早い返事だ。しかし、色よい返事はとても期待できない。
 どうして云ってしまったのか。後悔が襲う。その時は言わずにはいられなかったとは言え。覚悟はしていたはずだ。問題は、それを受け入れられるかだ。
 香織のことだ、わたしの言葉に、存在に向き合うために、必死に答えを用意したはずだ。わたしを最大限傷つけずに済むような言葉を。
 受け入れられるのか。香織は覚悟を決めた。香織とわたしの覚悟は質が違うが、香織は用意した。
 わたしに用意は要らない。できない。香織の言葉に向き合うだけだ。
 だが、メッセージの文章は用意しなくては書けない。仕事の合間に書くことではない。仕事上がりに書くことを決めて、麻美は業務に戻った。

『ありがとう。待ってた。こんなに早く返事してくれるなんて思ってなかった。その日なら大丈夫。十四時にいつもの場所でいい?』
 返ってきた返事には、抑えられた緊張が滲んでいるように感じられた。すぐに返事を返す。
『うん。大丈夫だよ。じゃあ、またね』
 簡潔すぎるだろうか、と思ったが、それ以上無理に書くこともない。その日を待つだけだ。

「わたしにはその気はないよ」
 そう簡単に言ってしまえば済む話だ。もちろん、そんなふうに返しはしない。せっかく再開した大事な友人なのだ。きちんと向き合って、答えを出す。いや、出した。
(否定しない言い方)
 香織は真央の言葉を反芻した。傷つけないことは不可能だろう。しかし、丁寧な返事はできる。
「お待たせ」
 いつの間にか目の前に麻美がいた。下を向いて考えていたので、気が付かなかったのだ。
「待ってないよ。どこがいいかな。お茶できるとこ」
「どこにしようか。またローズマリーにする? あそこは今の時間ならひとが多いから…」
 香織は静かに同意した。
「そうだね。少し騒がしい方がいいね」
 二人は歩き出した。
「わたし、就職先が決まったよ」
 道すがら、香織は打ち明けた。
「そうなんだ! よかったね。デザイン系?」
「うん!」
「ほんとうによかった。ずっと探してたもんね。いつから?」
「来月から」
「ちょっと間があるね。ちょうど元気になれた頃だし、ちょうどいいね」
「ありがとう。麻美のおかげ」
「わたしは何もしてないよ」
「そんなことないよ」
 麻美とは、再開してから会うのはまだ二回目だ。それなのに、二回目とはとても感じられない。一回目に一日中会っていたことが大きい。二人の間に流れている空気は大きく異なるが。
 ローズマリーの前に来たところで、中を覗く。今日はそれほど混んではいないようだ。
 店内に入ると、二人以上で来ているお客さんが多いようで、意外に騒がしい。
 二人は店の中ほどの席についた。
「あいててよかったね」
「うん」
 めいめいが好きなものを頼んだ。
「飲み物が来てから話すよ」
「うん。心して待つ」
 麻美がふざけて返す。
 飲み物が来て。
「じゃあ…言うね」
 香織はそう前置きした。
「わたしは、恋愛として麻美を好きにはなれない。わたしも麻美のことがそういう意味で好きになれたらいいのにって思う。でも、なれない」
 一言一言を区切るように、語った。そして付け加えた。
「ごめん」
「謝らないで! 謝るようなことじゃない。わかってると思うけど。わたしが言いたくて言っただけ。わたしは」
 麻美は言葉を切った。周囲の客が自分たちに注目していないこと、依然として十分騒がしいことを確認するためだ。左右の様子を伺ったあとで、少し身を乗り出して小声で言った。
「わたしは、香織と、エッチなことがしたかっただけ」
 香織は息を呑んだ。何を言われたのかわからなかった。
「シたかっただけ」
 一瞬間を開けて、麻美は言葉を押し込む。。
 香織は徐々に、事情を飲み込んだ。具体的にどういうことがしたいのかは皆目見当がつかない。ただ、性的なことを言われたということだけは、理解した。自分が性的な目線で見られていたということを。
 香織は、自分の顔が熱くなるのを感じた。気づけば、麻美の顔もまた、赤い。
「ごめん! 忘れて」
「そこまで言っておいて「忘れて」はないよ」
 口に出して言いそうになるのをこらえて、香織は心の中で小さく叫んだ。
「忘れてなんて、言わないで。そんなの、ずるい」
「…そうだよね。ごめん」
「そうだよ、ずるいよ。言いっぱなしなんてずるい」
 責める言葉ばかりが浮かぶ。まるでそれ以外の言葉に蓋をするかのように。
 しばらく二人は言うべき言葉を失していた。
「わたしね、まだ誰とも、そういうことしたことないの」
 香織は秘していた言葉を差し出した。麻美も呼応するように、
「わたしは…少しだけ」
 と言った。
 いつしか、顔の熱は冷めていた。
「…何人くらい?」
「二人…かな」
「意外と少ないんだね」
 香織が吹き出すと、麻美もつられてはにかんだ。
「てっきりそんなことばっかりしてるのかと思った」
「違うよ! わたしは一途なんだから」
 麻美は、半分嘘を交えて、言った。
「ほんとー?」
「ほんとう。だから」
 再び、麻美は身を乗り出した。自然と上目遣いになる。
「な、なに」
 香織は動揺した。
 麻美は、その雰囲気に反して、何も言わずに身を引いた。
「ふふ」
 香織には、麻美の内心を知る術はなかった。

「目的の半分は達成した」と、麻美は思った。最後の動揺した目を確かめたからだ。
「振られてからが、始まり」が麻美の信条だ。
(それにしてもあの表情。かわいかったな…)
 香織とヤりたい。あわよくば心までも。
 見たことのない顔を見たい。
 麻美は我が身の業の深さを痛いほど感じていた。

 その日の夜は、なかなか寝付けなかった。麻美の瞳を思い出すと、どうしてか心が揺さぶられてしまう。
(どうしてだろう)
 この不思議な気持ちの理由がわかる日は来るだろうか。もしわかったら。
 間違いないのは、自分の世界が広がるということだ。感じられなかったものを感じ取れるようになる。そうしたら。自分の気持ちは、わかるだろうか。麻美の気持ちも、わかるだろうか。
 今はわからない、ということが、今の自分にわかっていることだ。
(わかりたい)
 あまり遠くない未来にわかりたい。香織は強くそう願った。

 7

 恋なんていうのは自分には必要ないし、世の中にも不要な概念なのではないか。
 真央は常々そう思っていた。皆が思春期と呼ばれるものを迎える中学生頃には、そう思うようになっていた。周りは常にレンアイというものに振り回されていたし、付き合っただの別れただの、早いだの遅いだの、長いだの短いだの、かわいいだのかっこいいだのと言っては競っていた。
 事故で左足を失ってからは、その情理が少し理解できるようになった。要するに、欠けている部分を支えてもらいたいのだろう。若くして杖に世話になっていることを馬鹿にされたり、杖をわざと蹴飛ばされたりした時、誰の支えも要らなかったと言えば嘘になる。ひどく傷ついて、狂おしいほど誰かとのカンケイを求めたことはある。
 自分が求めているものがレンアイではないらしいと気がついたのは、学生時代に麻美と肌を合わせた時だった。当時の麻美は遠距離恋愛の終焉によってひどく荒れており、レンアイカンケイを求めていた。真央は真央で、杖とは異なる、心の支えを求めていた。両者の欲求は合致しているかのように見えた。
 ところが、性行為によって明らかになったのは、「性行為をすることと、心を支え合うことは、別である」という事実であった。麻美に言わせれば「恋い焦がれたらシたくなるものなの」だそうだが、真央の方は「自分は性行為をまるで求めていない」という確証を得ていた。その上で「支え」となるようなカンケイを模索するようになった。
 それから数年経った今、すっかり杖と義足の生活に慣れてしまい、そんなことはどうでもよくなってしまったのが寂しい。何かをもっと理解するチャンスを逸したように感じるからだ。
 麻美が再びレンアイにかぶれ、香織とのレンアイカンケイを求めるようになった時に思ったのは、「麻美はレンアイに向いていない」という事実だ。具体的にどう言うべきかわからないが、レンアイは少なくとも自律した者同士が行うものだと思う。二年経ったが、相変わらず麻美に自律はないようだ。
 真央が麻美から「香織に薬をつけよう」と誘われた時に拒まなかったのは、香織に新しい世界を体験させることが香織にどういう変化をもたらすかを見てみたかったのもあるが、もう一つ、麻美が香織の変化にどういう影響を受けるのかを見てみたかったのもある。
「ところで、今度、バーに行かないか。おもしろいイベントがあるらしいぞ」
「おもしろいって、何が」
 急に会話を打ち切った自分に、香織はうろんな眼差しを向けた。
「普段会えないようなタイプの人に会えるらしい。麻美に誘われたんだ。香織も連れて来てくれって」
「麻美が?」
 まだ香織は訝しんでいるようだ。もうひと押し。
「ああ。就職祝いもしたいしな」
 香織はしばらく考え込んだ様子だったが、何か閃いたようだ。
「そっか。そういうことなら、行く」
「よし! じゃあ行こう。今夜あいてるだろ?」
「こ、今夜?」
 香織は渋面になった。
「そう。こ・ん・や。かしこまった格好をすることはないから。オレだってこの服とあの杖で行くし。楽しもう! あ、会費は三千円だから、先に渡しとくわ」
 差し出したお金を、香織はしぶしぶ受け取った。
 そんな香織を横目に、真央は心の中で「新しい風を吹かすぞ」と意気揚々としていた。

 真央と共に美園町の門をくぐる。歩き慣れない歓楽街を何度か回ったところで真央が止まったのは、壁に店の看板が並んだビルの前だ。
「ここの三階。ザ・サードって店だ」
 狭く薄暗いエレベーターで三階に上がる。
「ザ・サードっていう名前は、三軒目に来るような店ってことらしい」
 今はどうでもいい講釈を垂れる真央に導かれるままに右へ出ると、奥の方に黒い看板が見えた。真ん中にピンクで店名が書かれている。
「入るぞ」
 真央は短く声をかけて、香織に心構えを促した。バーに慣れていない香織への心遣いだ。
「うん」
 香織が返事をしたのを確かめて、真央は扉を開けた。
「あっ、いらっしゃーい」
 薄暗い店内には、すでに何名かのお客さんが入っていた。このバーもあまり広くはない。ちょうど、プルと同じくらいだろう。
「こんばんは~。あっ、アティさん。ひさしぶり」
 真央がアティと呼んだ、女装した―としか見えない―長身で大柄なお客さんもこちらを見て言った。
「あらおひさしぶりねえ。そちらはどなた?」
 香織はそのオネエっぷりに面食らったが、顔に出すのは失礼な気がして、なんでもないふりを装った。
「わたしは、香織と言います」
「まあ、香織ちゃんね。わたしはアティよ。はじめまして」
「はじめまして」
 挨拶しながら、香織は「どこかでこのひとと会った気がする」と思っていた。肌が黒い人と言えばイン・ジ・イエローの店員さんくらいしか思い浮かばないが、あまり顔を見ていないので、同じかどうかはわからない。
「まさかね」と、香織は自分の想像を一蹴した。
 でも…と香織は思う。もしそうだったら、おもしろいな、と。
「香織、こっちがけいちゃんと、ひいちゃんと、きいちゃん」
「はじめまして。けいちゃんです~」
「ひいです」
「きいです。よろしく」
 自分よりずっと短い髪―これがベリショだろうか―でほっそりとした体型のお客さんが、けんさん。
 同じくベリショで、身長で丸顔のお客さんが、ひいさん。
 ウェーブがかったロングの黒髪に長身のお客さんが、きいさん。
 紛らわしさのあまりに覚えられるか不安になっていると、
「こんばんは~」
 背後から麻美がやってきた。
「ああっ、香織! 来てくれたんだー!」
「う、うん」
 以前までとは明らかに異なる線のしっかりしたメイクをした麻美を見て香織は面食らったが、再度なんでもないふりをした。この場所ではなんだか、そういうことを言うのが失礼な気がするのだ。
「いつもと違うって思ってるでしょ~」
 心の中を見透かしたように麻美が言った。香織はついに驚きを隠せなかった。
「どうしてわかったの!?」
「香織の考えてることなんかお見通しだよ~」
 麻美は香織の隣を、左手をひらひらさせて店内へ入っていった。それに倣って香織も店内に進む。
 先に入った真央が、すでにグラスを片手に、先客たちと飲んでいた。その輪に近づこうとしたところで、マスターから声をかけられた。
「先にお金もらっていい?」
「あ、は、はい」
 慌てて香織はお金を出した。三千円だ。
「ありがとうございます。何飲みます?」
「あ、じゃあ、ジントニックください」
「香織はそればっかりだね」
 そういう麻美もいつもの緑色の―メロンボールだったか―カクテルであることに気がついた。
「これぐらいしか知らないの。麻美だっていつものじゃん」
「わたしはこれが好きなの~」
 できあがってきた飲み物を受け取ってひとくち口をつけたところで、麻美が耳元で囁いた。
「アティさんね、これ言うとアウティングになっちゃうんだけど、イン・ジ・イエローの店員さんなの。覚えてる?」
「あ…やっぱりそうなんだ」
 アウティングという言葉は耳慣れなかったが、音の響きでわかった。秘密をばらす、というような意味だろう。
「気がついてたんだね」
「うん」
 あらためてアティさんを遠くに眺める。イン・ジ・イエローの天井が高いせいか気にならなかったが、この狭い店内ではその身長は際立つ。服装は、しかし、意外にも―失礼な話だが―似合っていた。ロングのドレスがすっきりした印象を与えるようだ。
「かっこいいね。それに、きれい」
「きれいだね。あっ、忘れてた」
 麻美はそう言うと、グラスを軽く上げた。そして数日前に見せたような色っぽい瞳で、
「就職、おめでとう」
 と言った。
「ありがとう」
 香織は一瞬遅れて言うと、グラスを合わせた。チン、と音が鳴る―。
 その音を聴いたかどうか、判然としない。しないままに。
 麻美の「顔が」耳元で囁いた。
「今晩、シない?」
 香織は何かを悟った。そして受け入れた。思うよりも早く目をつむった。
 頬に感触。その刹那、全身に電撃が走った。凡庸だが、この表現がいかに的を射ているか、あとで思い知った。
 全身を打たれた衝撃から覚めると、切なげな瞳が自分を見ていた。
「わたし、おかわりもらってくる!」
 香織にもわかるような嘘をついて、カウンターの方に歩いていった。かと思うと振り返って、言った。
「またあとでね」
「香織、こっちに来いよ」
 不意に、真央に呼ばれた。
「あ、う、うん」
 顔が紅潮しているのを自覚したが、誰にもわかるまいと決めつけて、真央の方へ。
(あとでって、何がだろう)
 そんな思いを振り切って。
「あら、香織ちゃん。楽しんでるう?」
 アティさんが妖艶に話しかけてきてくれた。現実に引き戻されるのを感じる。
「ええ」
「真央ちゃんのお友達なのね? 会えて光栄だわ」
「こちらこそ」
 香織はやっとのことで返事をした。そして自分の社交性を呪った。続く言葉が出てこない。
「初めてこういうところに来て緊張してるだろ」
「うん。そうなの」
 香織は真央の言葉にすがるように同意した。
「あらそうなの? ごめんなさいねいきなり話しかけちゃってぇ」
「と、とんでもないです」
「初めてなんてうらやましいわ。あたしが初めての時を思い出すわぁ。右も左もわからないうちに」
 手を左右にひらひらさせながら。
「姉さんたちに囲まれてあれよあれよと言う間にひん剥かれちゃってぇ」
 香織がアティさんの回想を聴いていると、
「そのくらいにしときなよー。香織が退屈してるだろ」
「えー、おもしろいなと思って聴いてるのに」
「そうなのか? ならいいけど」
「ありがぁと。それからと言うもの、わたしはこの世界の虜なのよぉ。あなたには何が待ってるかしら?」
 そう言うと、アティは香織の顎をそっと撫でた。
「祝福するわ。カンパイ」
 再びチンッという音が鳴った。
「わたしはあっちに言ってくるわねぇ」
 そう言って、アティは去っていった。背中を見送っていると、横から話しかけられた。
「ねぇねぇ」
「は、はい」
 さっきの三人の、最も小柄な人―けんさんだ。
「今日はどうしてここに来たのぉ?」
 なんとなく絡まった感じの口調。どうやらすでに酔っているようだ。香織はグラスのことを思い出して、ひと口飲んだ。氷が溶けて、ずいぶんと薄くなってしまっている。もう一口つけて。
「あっちの、真央に誘われて」
「あっ、そうなんだぁ。もう一回名前訊いていい? あー、あたしはけいちゃんって呼んでぇ」
 けいさんは手近なスツールに腰掛けた。香織も隣に腰掛ける。
「香織です」
「香織ちゃんかぁ。どうー? ここ楽しい?」
「ええ! アティさんの話を聴いてたんですけど、おもしろかったです」
 今度は、するすると言葉が出てきた。目の前の人物―けいさんのおかげだろう。
「あぁそうなんだぁ。よかったねぇ」
「けいさんは、ここにはよく来られるんですか?」
「あたし? あんまり来ない」
 そう言って、けいさんはにんまりと頬を緩ませた。釣られて香織の頬も緩む。
「でも今日はイベントだから来たの。女性オンリー? なんかぁ、自分を女だと思ってる人ならおーけいでぇ、男の人でも女の友だちが同伴ならおーけいなのぉ」
「そうなんですかぁ。へえぇ」
 香織は素直に感心した。
「自分を女だと思ってる人なら、誰でもいいんですね」
「そうなのぉ。戸籍上女でないとだめって言ってるところもあるよぉ。あるけどぉ、わたしはこっちの方が好きかなぁ」
「どうしてですか?」
「だってぇ、その方がおもしろいじゃん。男の人が入ってくるとリスクは増えるけどぉ―色んなね、リスクがねぇ―だけどぉ、色んな人がいるってことがわかる方がぁ、わたしは好きかなぁ。わたしもさぁ、自分のことをなんとなく男って言ってるけどぉ、どっちでもよくなっちゃってぇ」
 けいさんはそう言って、ビールをぐいっとあおった。
「そんなに飲んで、大丈夫ですか? ずいぶんお飲みになってるみたいですけど」
「うん。けっこう飲んでる。でもまだイケるぅ」
 けいさんは「あはは」と笑った。すると、
「けい、飲み過ぎてる」
 ロングヘアの人がけいさんに話しかけた。名前は思い出せない。
「ほんとだー」
 もう一人、丸顔の人が来た。ちょうど、三人揃った。
「あ、ごめんなさい。わたし、きいっていいます」
 ロングヘアのきいさんは、少し砕けた感じ。
「わたしはひいです」
 丸顔のひいさんは、礼を大事にする印象だ。
「きいさんに、ひいさん。初めまして」
「初めまして」
「初めまして」
 二人続けて、挨拶してくれた。
「皆さんはお友達なんですか?」
「ええ、そうです。三人で住んでるんです」
 そう言って、ひいさんは手で他の二人を交互に差した。
「へぇ。三人で」
「そうそう。子どももいるよ」
 ロングヘアのきいさんが言うと、けいさんが説明した。
「今日はぁ、友達に預けて来たのぉ。同じくらいの友だちがいる家にねぇ」
 香織は驚いた。女性―に見える人たち―三人で子どもを育てる。しかも友だちの家に預けるなんて、まったく想像の外だ。
「今いくつなんですか?」
「今、五歳です」
 ひいさんは、手をパーの形にした。
「へえぇ」
「どうやってお子さんをお作りになったんですか?」とは、訊けなかった。無粋な質問に思えたし、三人に対してはそんなことはどうでもいい、という気にもなっていた。

 香織にとっての新鮮な夜は長かったが、ついにお開きとなった。
 真央と麻美と香織の三人で、帰途についた。
 路地をしばらく歩いたところで、打ち合わせ通り、真央がポケットに手を突っ込んで「ないっ。忘れ物してきた。ちょっと待ってて」と言って、店の方へ戻っていった。
 残された二人の間に言葉はない。麻美は、これからの手順を考えたり、香織を見たりして時間を潰した。
 十分ほど経った頃。
「香織」
 麻美はそっと声をかけた。
「何?」
 香織は振り返りもしない。その様子を見て、麻美は慎重に言った。
「さっきはごめんね」
 香織はパッとこちらを向いた。
「また! ずるい!」
「ううん。急にしちゃったし。今度こそわたしが悪いよ」
 言葉を切って。
「でも。もう一回シたい」
 そう麻美が言うと、どういうわけか、香織が距離を詰めてきた。そして一呼吸置いて、香織は言った。
「わたしも、シたい」
 麻美は、香織を無茶苦茶にしたい衝動に駆られる自分を必死に押さえつけて、そっと肩に手を添えた。
 香織の体がわずかに震えるのを感じながら。
 香織が目を閉じるのを確かめるように。
 唇で唇を撫で。
 その感触を確かめた。
「あっ!」
 麻美に堪能する暇を与えず、香織が叫んだ。
「真央のこと忘れてた!」
「真央なら、来ないよ」
 香織の鈍さにため息をつきながら言うと、香織は目を円くした。
「嘘ついたの!?」
「うん」
 事態を飲み込んで絶句している香織だったが、麻美が「行こう」と言うと、しばしの逡巡の後で、覚悟を決めたように、ついてきた。繁華街の外れにある、あらかじめ調べておいたホテルへ。
 ホテルの前に着くと、半歩後ろで下を向いている香織に言った。
「今さらだけど、大丈夫?」
 香織は右に視線をそらせてから、前を向いて、頷いた。

 部屋に着いたところで、麻美に肩を抱かれた。求められるままに、唇を差し出す。唇を斜めに合わせた後、右から左に何かが唇をなぞった。
 舌だ。
 気づくが早いかすぐに道を開くと、スッと、優しく入ってきた。歯を撫でる柔らかな感触に、再び全身が反応する。
 続く行為を期待したが、あっさりと抜かれてしまった。
「じゃあ、シャワー浴びよっか」
「えっ」という表情に気づいた麻美は、言った。
「続きはもっと楽しいから、早く浴びよう」
(楽しいっていうのは何だか違う気がする)
 そう思いつつ、従った。メイクを落とし、服を脱いだ。
(濡れてる)
 見えないように下着を畳んで、浴室に入った。麻美は慣れた手つきでタオルを手にして、後から入ってきた。
 大きな浴槽があったが、今は浸かりたいとも思わない。続きが気になって、洗う手もおぼつかない。
 麻美が何もしてこないのを香織は訝しんだが、洗うだけ洗って外に出た。
 服はいつの間にか片づけられていた。代わりにバスタオルとバスローブ。
(これを、着たらいいのね…)
 今さらながら、ハードルを感じた。これを着たら、後に引けなくなる。
 とは言え、引く気はさらさらないのだが。
 とにかく着て髪を乾かしていると、麻美は上がってきた。体を拭いた麻美にドライヤーを手渡すと、自分はベッドの上に腰掛けて、その時を待った。シャワーを浴びる前より、いくぶん頭も体もすっきりしている。
 やがて、バスローブを着た麻美が現れた。隣に腰掛けて、顔を覗き込みながら、言う。
「後から嫌だったっていうのは、なしにしてね」
「大丈夫」
 麻美は小さく頷くと、香織の体を抱えるようにして、ゆっくり倒した。
 香織の手に触れつつ、壊れ物に触れるかのような口づけ。
 続けて頬、首筋へと、触れるか触れないかの感覚が連なる。来るべきところに下がってきた時、思わず息が漏れた。ぬるりと這われるたびに。硬さが触れるたびに。
 ふと目を開けて麻美の顔を見やる。一所懸命に自分を攻める様子に、否応なく感度が上がる。麻美が動くたびに、体が操られたかのように揺れる。
 身を任せるように目を閉じると、脇から腰にかけて滑るように指が走った。いや、触れただろうか。どちらでもいい。ただ唇歯手指に委ねていたい。
 ところが。
「胸…触ってくれない?」
 お預けを食らい、がっかりさせられた。麻美に導かれるままに、香織は手を麻美のバスローブに差し入れる。予期せず突起に手が当たった。麻美の吐息が首をくすぐった。
 吐息の元が香織の唇に触れ、またも侵入する。やすやすと防衛戦を突破して、絡み合う。上半身の触覚が「感じろ」と訴え、まぶたの裏に光が明滅する。忘れそうな右手の突起を、麻美を真似て触れる。相手の反応に、我が身も感応する。
「電気、消すね」
 香織の右手に左手を絡ませながら、麻美は部屋の明かりを暗くした。引かれるままに、枕元に移動すると、下に麻美の姿があった。
「どこに触ってもいいよ」
 そう言って、すっかり敏感になった突起を攻めてくる。たまらず身をすくませる。
「攻めてこないなら、攻めちゃうよ」
 指が上半身の丘陵を占領した。気づけば相手の足指が自分の足指に絡んで、こちらも進軍を伝えてくる。打つ手なしだ。むしろ、負けたい。
 しかし、敵は反撃を望んでいる。敵を真似て、胸に、腰にと指槍でつつくと、攻撃の手が緩むのがわかる。だんだんおもしろくなってきて、反撃を続けた。
 腕が疲れてきた頃、
「ありがとう。気持ちいいよ、香織」
「よかった」
「下は…触ってもいい」
「痛くない?」
「大丈夫。痛くしないから。でも、痛かったら言って」
「うん」
 そう言って、体を入れ替える。腕をだらりと下げて、ベッドと麻美に体を預けた。
 麻美は枕元からコンドームを取り出して、指に装着した。あらためて、香織に手を伸ばす。
 腿の内側を撫でつつ、手がやってきた。指が下唇に触れ、下から上へ。
「痛くない。大丈夫」
「ほんと?」
「うん」
「わたしのも触ってほしい。同じようにしてくれたら大丈夫だから。あ、ゴムつけてあげる」
 指にコンドームをつけてもらい、半信半疑で触れてみる。されたように、触らずに、触る。
(濡れるって、こんな感じなんだ…)
 右手の指が、新しい情報を運んでくる。同じように首に吐息が運ばれた。
 香織の脳裏に、突如ある考えが閃いた。
「麻美。麻美のここ、見せて」
「見るって、おまんこ?」
 友人の口からそんな単語が出てくることなど思いもしなかったし、忘れそうな単語だったが、かろうじて覚えていた。
「うん」
 麻美はゆっくりと体を下ろしてバスローブを脱ぐと、脚を開いた。
「どう? 見える? 暗いけど」
「見えるよ。こんなふうになってるんだね。見たことなかった」
 目は暗闇に慣れていたので、概ね視認できた。
「自分の、見たことないの?」
「ないよ! 麻美はあるの?」
「ある」
「そう…なんだ…」
 今日はいつまでも新しい出来事ばかりだ。
「ありがとう。もういいよ」
 麻美は脚を閉じると、待ってましたとばかりに、言った。
「香織のも見せてよ」
 香織は迷ったが、見せることにした。
「わかった」
 麻美がしたように、脚を開く。
「へえ。香織のはこんなんなんだ~。光ってる~」
「やめてよ! 恥ずかしい。もういい?」
「もういいよ。ありがとう」
 香織はサッと脚を閉じた。
 行為は、終わった。
「電気、つけるよ」
「うん」
 二人は処理をして、再びバスローブを着た。
 麻美が心配そうに尋ねる。
「どう? 楽しかった? わたしは楽しかったけど…」
「うん。楽しかったよ」
「ほんと? よかった。嬉しい」
 麻美は破顔した。香織は、麻美が「楽しい」と言った意味を噛み締めていた。

 終章

 真央は、香織が「麻美とは付き合わない」と言ったのを、驚かずに聞いた。香織は、自分が想像した通り、何らかのメッセージをザ・サードで受け取ったのだ。「自分の可能性を狭めてしまう気がする」と言っていた。それはそうだ。色んな選択肢がある。それを「付き合う、付き合わない」なんて選択で狭めるのは、傍目でもつまらない。
 麻美はと言うと、こちらはリベンジに燃えていて、依存症ではないかというこちらの疑いをはねのける勢いだ。ちっとも代わり映えしない。こちらは期待外れ。
 二人が距離を取ることにならなかったのは、嬉しい限りだ。むしろ、たまにヤッているそうな。
(あの夜は楽しかったんだろうな)
 そう思うと、自分もできたらなと思う。サッカーが―今はできないが―できたらなと思うのと同じように。
 香織はその後、新しいデザイン会社に馴染めたようで、日々が楽しそうだ。
 オレ? オレは、レンアイの要らない伴侶を探すさ。

 了

▼あとがき

 りょうです。最後までおつき合いいただきまして、ありがとうございました。
 あとがきです。

 登場人物やお店の名前は、身の回りのひとやお店にちなんでつけています。身の回りから取ってないのは香織、麻美、真央、ミョンジュ、オティ=アティの五人です(ただ、香織だけは、新しい名前をひり出す労を惜しんで、昔書いた『つまさき』というお話の主人公と同じ名前にしました)。その他の名前には由来があるので、気になる方はお問い合わせください。ちなみに舞台は(地理に詳しくないので)今住んでいる京都です。

 最初はジェンダーをテーマにするつもりはまったくありませんでしたし、エロを書くつもりもありませんでした。「悩んでる主人公がひとと会って元気になる話」「主題を主人公に載っけない」「わからないことはなるべく書かない」という主題と縛りで見切り発車したら、プロットが徐々にできてきて、気がつけば懐中電灯を頼りに暗闇を歩くような心持ちで書いていました。

 PC(Political Correctness/政治的正しさ)を追求してみたかったのですが、あまりできていない気がします。消費している感覚が否めずです。優しめにご指摘いただけたら助かります。

 それにしても、知らない世界はとことんわかりませんね! わたしの内的世界を分割してキャラクターにしたので、それ以外の内的世界は書けないわけです。こういうのは、取材して補う必要があるんでしょう。読書とか。
 あと、バイの登場人物が全員節操がないのは、わたしが書いたからです。そうじゃないひともいます。ごめんなさい。

 それでは、拙稿を終わります。
 重ね重ね、ありがとうございました。

2017年8月 りょう

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