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日記

30年先と60年先に思うこと

今、わたしは37歳。今年で38歳になる。

現制度の「65歳の定年」まで、27年ほどある。

途方もなく長い時間に感じる。27年間も、お金をもらって働くようになった時から今までの時間の倍を、働かないといけない。

そんなに働けるものか、とても無理だ、と思う。

でも、もし、働けてしまったら?

わたしは、今から20年前の18歳の時、38歳まで生きるつもりなんかなかったし、想像もしなかった。どんな気持ちで、どんな心で、どこで何をして生き続けているかなんて、恐ろしくて考えたくなかった。とにかく二十歳までに死んでしまうことを望んでいた。死ぬだろうと半ば信じていた。

ところが、二十歳はあっけなく超えた。その後は、しょっちゅう見えない、感じることもない何かに向けて「死にたい、殺して」と祈願し続けている。もう18年になるけど、さっぱり叶わない。

38歳のわたしは、間違いなく昔とは異なる人間だ。種々様々な経験を経て、行動様式や思想信条や思考回路が大きく変化した。

こうした変化を人は「大人になった」と言う。この表現にはわたしも同意する。子供の時から変わらない人のことを「大人になった」とはあまり言われない。子供っぽい人もそうは言われず、「あの人は子供だ」と言われる。

かくして大人になったわたしも、ずいぶんと子供の時の感覚や記憶を引き継いでいる。みんなそうだと思う。多くの人は、昔から一貫した、同一の「意識」みたいなものを持っていて、「作り替えられた」とは感じていないだろう。忘れたり覚えたりを繰り返しただけで、たいていの人にとって「自分」は別の誰かではない。たまに「いろいろあったなぁ」なんて振り返ることがある。悲喜こもごもに。

さて、これがさらに、65歳までの27年間続く。もし生き続ければ、あるいは生き残ったら、その間の賃労働や社会活動や友達付き合いを通じて、さらに自分は変わる。生きたくもないばかりか死ぬこともできず、仕方なく何かを楽しむ。そして「なんだ、やっぱり生きたいんじゃないか」と後ろ指を指される。どんどんと、じわじわと、時間は過ぎる。

65歳のわたしは、その後の30年間について何を思うだろう。登りたくもない山に無理やり登らされた挙句、「定年過ぎ」という理由で路銀(賃金)は生活が成り立つかどうか怪しい水準にまで減らされ、途方に暮れているだろうか。絶望は増えるのか、減るのか、このままなのか。

60年後、88歳になった時に、何を懐かしく思い出し、何を楽しみ、何に悩んでいるだろう?

……考えたくない。

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