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良さと正しさ

「良さ」と「正しさ」は別のものだ。

正しさには他人の合意が要る。正しさを主張するのは合意が要るからであって、合意が要らないならわざわざ言う意味はない。ただし、合意を得た正しさが必ずしも良いとは限らない。

一方、良さには合意は要らない。良さは考えることができさえすれば足りる。ただし、どんなに良い考えでも合意は得られないかもしれない。そのときには正しくないとされるかもしれない。

したがって、「良いが正しくない」ことはあるし「悪いが正しい」こともある。一般的に、人を拘束するのは良くないこととされる。でも、どうしても他人に暴行を加えようとする人を止めるためには、自由を奪わないといけないかもしれない。いくら説得しても自分で止まってもらえないならやむを得ない。これは「悪いが正しい」例。逆に、拘束するのはどうしても良くないからと言って、危険な人物を野放しにするのは正しいとは言えそうにない。これは「良いが正しくない」例。

良くて正しい常識を求める

合意が得られ、かつ良い場合も考えられる。今、各々の理由はどうあれ、セクハラを避けることに多くの人が同意している。性暴力被害に遭いやすい女性やマイノリティたちには必要と言えそうだ。

ところが、これに了解した上で「実はセクハラという概念は悪い」と主張する人もいる。かいつまんで説明すると、セクハラという言葉が「被害者」を「弱い人々」という立場に縛りつけてしまうから、という考え方だ。強く生きられるはずの人々から強さを奪ってしまう、というわけだ。

このような考え方は、もし「より良い」としても、実現されることは、今のところ多くの人には合意されないと思う。主張している当人も合意しないかもしれない。「こっちのほうが良いんだ!」と強く主張しつつ「とは言え、今やるわけには行かない」と及び腰な人だ。

それでも、良さは考えられる必要がある。セクハラはかつて「無かった」し、男たちは合意しなかった。良いとも考えなかった。でも、フェミニスト(と自称していたかどうか?)たちがその言葉を創り出して世に広めた。正しくかつ良いと多くの人にみなされるようになった。常識になった。

考えることをやめない

「この考え方は常識になるべきだ」と言われることがある。ではその常識を作るために必要なのは、何だろう。良くも正しくもない常識を打ち破って新しい常識を生むために必要なものは。

わたしは、良さを追究する人と正しさを追究する人、その両者が必要だと思う。それもたくさん。何十人何百人もの人々が作り上げる。できるだけばらばらな人がいい。様々な生き方をしている「研究者たち」がやるべきだ。

できあがる答えが正しいとは限らないし、良いとも限らない。あなたは合意できないかもしれない。その時こそ、あなたは、あなた自身が「研究者」のひとりになって、話に加わらないといけない。ただし、「良さ」にもたまには目をやるべきだ。せっかくみんなでやるなら「より正しく、より良いもの」を目指すべきだ。

良さを目指すには

と言いつつ、残念ながら、わたしはそんな人はいないと悲しみつつ強く思っている。

「より正しく、より良い」と考える指針は、ひとつは「宗教的な」ものに含まれる。日本人が捨てたものだ。神や先祖や妖怪をもてはやしつつ、ろくに信じない。もうひとつは「知を求めること」だ。これも日本人は捨ててしまった。「哲学的な考え方」に一時的に憧れはしても、自らがそう考えるようになろうとは思いもしない。

「弱くてもいい」と思う人々に「合意のためにたたかう力」は湧いては来ない。せっかく見つけた良いことを「良い」と信じることもできない。

……こうしてわたしの思考は続く。

できれば、あなたも続けてほしい。

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