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デモ 一日一善日記 思想

いうデモはなぜ赦されるのか?

だれかがなにかをいうデモという、「誰が何を主張してもいい」という謳い文句のデモをやっていたことがある。8回やった。

始めた当時は「公安に申請する形式のデモすらできなくなるのでは」という不安があった。「そんな時代が来る前にデモというものをやっておきたい」という軽い気持ちで始めた、軽薄な動機に基づくデモだった。

A5やA4でビラを作って公共スペースに配架してもらったりデモ情報に日程を載せてもらったりしたものの、一人ででも歩くつもりでいたから、広報にはあまり力を割かなかった。参加者は3人の時もあれば10人ぐらい集まることもあった。それぞれ「言いたいこと」を持ち寄ってくれて、まとまりのなさがおもしろかった。「警察の方が多いデモ」と笑いの種にもなった。

誰が当日来るかは全くわからなかったから、唯一の主催者として緊張感はあった。全く許容できない主張をする人が来たら「その主張はやめてくれ」とか「今日のデモは中止です」とか言う覚悟くらいはしていた。それは主催者特権だったけど、不公正に反対する者の責任でもあると考えていた。幸いそのような人は一人も来なかったし、相反する考え方の人が当日は気を遣っていつもと違うプラカードを持ってきてくれることすらあった。

全く正しくないデモ

思いつきで始めたデモだったのに、不思議なことにファンのような方がおられ、今でも「行きたかったのに行けなかった」と言ってくださることがある。

なぜだろう?

何も正しくないのに。

たとえば手話通訳や介助者は一度も用意しなかった。盲者やろう者が来てくださったことはないし、重度の身体障害者の方が来られたこともない。

「そんな大層な」と笑う人もいるかも知れないけど、それは違う。こういう風に「不自由を持つ」人々が排除されていることを、わたしたちは知っている。「性別で分かれたトイレしかない施設で開催されるイベントには行きづらい」と言う人がいるのと同じだ。こうしたこと一つ一つが真綿で絞めつけるように人々の呼吸を奪う。

東京トランスマーチのボランティア対応が不十分だったと指摘する人がいて、その人に対する主催者側の応答が非難されているけど、わたしはどうかと問われたら、返す言葉はない。「すみません」しかない。「やりたいことを優先して、やるべきことは何一つしなかった」と言える。

やるべきこととは何か

ところが、その「やるべきこと」を優先するにも、限界はある。「手話通訳や介助者を用意すべきだ」と言うのは簡単だけど、実現するのは酷く大変だ。依頼したらしたで「十分な報酬を払うべきだ」と言われる。「盲者、ろう者への広報が不十分だ」「これでは重度身体障害者が一人で来ることはできない」等々、仕事は際限なく増える。

「イベントをすることは誰かを切り捨てることだ」と言う人がいる。もっともな話だ。東京トランスマーチやレインボーフェスタに行き届かないところがあるのも、こんな言い方はしたくはないけど、仕方がない。人にできることには限りがある。任意団体ではなおさらそうだ。

この「仕方がない」に含まれるものを減らすのは、外から見ているだけの人が考えるほど容易じゃない。「どこが?」と思う人は、すぐにその団体に連絡を取って主催者になりましょう。もしそうしないのであれば、おそらくその理由は、現在の主催者がそうしなかった理由と同じです。やりたくてもできないんです。

※東京トランスマーチのスタッフがバラシの現場で言ったとされる(←この言い方は申し訳ないですが許してください)言動を養護するつもりはないです。わたしとしては、Fuck the terf問題や主催者の不透明さという課題につながる「根深い問題」が横たわっている気がしています。

やりたい人がやれる世の中

このジレンマに対するわたしの今の結論は「やれる人がやるしかない」ということ。

このバリアフルな社会では、そのバリア(障害)を簡単に越えられる特権のある人の方が、イベントをより容易に主催できる。不十分さに開き直ることなく、共通の目的を実現するための場を開き、やるべきことを実現できる人から学ぶ……この不断の努力は(傲岸不遜な性格の人はおいといて)心身に不調のある人にはなかなか難しい。そもそも、人のできることに大小あるのは当たり前だ。

※ただし、車椅子の乗車をめぐってバスを止めた青い芝の会の活動がかつてあったことは、念の為言及しておきます。「健全者だけがイベントを開催できる」という雑な主張をしたいわけではありません。

わたしは「特権は、責任を果たすためにある」と考えている。特権を単に捨てようとする人がいるけど、それは間違いだと思う。不公正を解消するために自分の特権が役に立つのなら、ぜひ捨てるより使うべきだ。正しい使い方を教わりながら、鉛筆のように使い続けてなくしてしまおう。

ただ、主催者が持つような類の特権についてはそうはいかない。その「場」がどのような種類の場であるかによって、様々な立場がありうる。たとえばパレードと自助グループは全然違う。パレードの会議は公開されている方が好き、かな。

やりたいことを、やりたい人が、やればいい

人は産まれ、生きて、やがて死ぬ。

世代を超えて継承される価値観もあれば、廃れる価値観もある。

人が進化らしい進化をこの数千年していないのに、あなただけがあらゆる正義を踏まえたイベントをしなければならないとしたら、(そしてそんなことを要求する人がいるのなら)、わたしはそれは不当な要求ではないかと感じる。

「未熟な人が成熟するには何十年もの時間が必要だ、ということを先達はわきまえるべきだ」とここ数年思う。せっかくの若芽を踏みつけて鍛えることも時には必要だけど、それに耐えるには水や肥料が必要だ。水や肥料が、あなたにはあるか?

で、いうデモは……?

いうデモが非難されなかったのは、主催者の顔がよく見えるという、その程度の理由だったのでは……と、ここまで書いていて感じられてきました。まるで安倍晋三が桜を見る会で著名人を懐柔したように……と言うのは穿ちすぎとしても、もしそうなら、直接話すということは、やっぱり大事なことなんでしょう。人となりを知っていると、たとえば変な発言をしていても、無闇に怒ることはなく、ツボを押さえた冷静な話で済むことがある。明らかに不十分なデモでも「あの人なら仕方ない」と大目に見たりする。

いうデモはひどいイベントです。それでも、デモ申請を何度もやって慣れることができたし、覚悟さえあれば一人でも路上を歩けることを示すことができたわけです。こんな「当たり前」のことも、こうして書いたり話したりしないと、伝わらない。

やれる人がやる。そして成長してやれることを増やす。その第一歩が「自分がやりたいこと」だってかまわない。

だから、何かあってもあんまりきつく言わないで、手を差し伸べてあげてほしい。主催者も開き直らないでほしい。上から見たら、内部の争いほど「うまい飯」はないんだから。

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