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日記

コロナに際し左派が守ろうとしたもの

コロナ騒ぎの渦中、わたしの身の回りの左派的な人々は、こぞってマスクを身に着け、手洗いを推奨し、ワクチン接種を受けた。

と思いきや、ワクチン接種に対して慎重な見方をする人もごく一部存在していた。個人的に意見を聞かせてくれたり、SNSで疑念を投稿している人を見かけたりすることも、なくはなかった。

しかし、支配的な見解は、「コロナワクチンに疑義を唱える者は陰謀論者である」というものだったと思う。陰謀論者という言葉を差別的な意図をもって使う人が非難されることはなかった。少なくとも、「そんな言い方はすべきではない」と言っている人をわたしは見たことがない。

「リベラル系の人が科学を好むのは、地域の伝統的な価値観によって排除される人々が、科学の合理性に基づいて権利を獲得することを目指したからだ」と、わたしは理解していた。統計や測定値、それらがない場合でも個人の体験をもとに論理を形成し、支配的な意見と闘うわけだ。

たとえ味方が一人もいなくても。

意見が異なる人々と共存できることこそが、我々左派の豊かさの源泉のはずだった。

ところが、コロナ騒ぎに際しては違っていた。

命と健康のためならば、少数意見は圧殺してもよかったのだ。たとえその意見が命と健康のためであったとしても……。

最も信じがたい光景は、国の発表を鵜呑みにしたことだ。発表される「新型コロナ感染症」の危険性を鵜呑みにするまでは理解できなくもなかった。喘息の人が呼吸器感染症を恐れるのは当然だからだ。しかし、コロナワクチンの効果と副作用についても鵜呑みにするのは、左派としてはあり得ない感覚だろう。厚労省には種々の薬害の前科があるからだ。小中学生なら知らないかも知れないが、中年以上の世代はリアルタイムで薬害エイズの報道を見てさえいる。

2021年、ワクチン接種を勧奨する仲間たちを見て、わたしは左派に対する認識を改めざるを得なかった。科学的な観点において、緊急承認された医薬品を安全とみなすわけにはいかない。実際、副作用については、公的に、医師に報告義務がある。報告を怠る医師がいれば非難せねばならないし、重篤な副作用が明らかになれば接種中止も叫ばねばならない。左派はそういうものだと思っていたが、2025年を迎え、多数の重篤な副作用が明らかになった今、そのような動きが身の回りに存在するか?

わけがわからない。しかも、そのような安直な態度でさえ「これが科学的な態度だ」と言わんばかりに見える。

ともかく、ここまでの4年間で、コロナワクチンの薬害に対する等閑視だけでも、左派が信用を失うには十分だった。ある人は2011年の原発事故に際し、関東から避難しない活動家は活動家じゃないと言ったそうだが、まさにそんな感じだ。ワクチン薬害に関心を示さない左派など、もはや左派ではない。

命と健康を守るはずが、積極的に健康な命を危険にさらした。薬害の証拠は国のレベルでさえ積み上がっている。死亡一時金または葬祭料に係る件数は900件をゆうに超えた。左派は「公になる数は氷山の一角だ」とよく口にする。したがって、現実の数はもっとずっと多いはずだ。

ここまで書いてみても、虚しい。仲間は仲間でなくなった。わたしはクィアから距離を起き、西洋的な科学から距離を起き、中医学の道を進む

植民地主義の一つのはずの科学と医療に立ち向かわなくて、何が左翼だろうか?

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