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日記

『奇跡のリンゴ』を読んで

無肥料無農薬でリンゴの栽培を成し遂げた木村秋則さんの経験をまとめたルポ『奇跡のリンゴ』を読んだ。

 九年ぶりに畑一面に白い花を咲かせたリンゴの木々を述懐するくだりで木村さんはこう語った。

「この花を咲かせたのは私ではない。リンゴの木なんだ」

「私に出来ることは、リンゴの手伝いでしかないんだよ。」

この文は身につまされた。わたしも鍼灸師として「治す人になりたい」と思っていたけど、治るのは患者さん自身の力をうまく引き出せた時だ。

活かすも殺すも自分次第なのはわかっていたつもりだけど、もしも患者さんの力を誤った方向へ導けば、悪化して死ぬのだ。

誰かが治った時、「わたしの力で治った」と誇るつもりはさらさらないし、「治る力があったからですよ」と素直に言えるけれども、いや、だからこそ、「治す人になる」という言葉は適当でない。

それに、この考え方は、鍼灸師の経典『黄帝内経』で繰り返し説かれている。

木村さんは「私はバカだから」とよく言われるそうだが、そう言いたくなる気持ちはわかる気がする。わたしの場合は、今書いたように、よく知っているはずのことに自分で気がつかないことがあるからだ。

良心的な医師であれば「治癒に導く手助けをします」ぐらいのことは言うものだ。

「死ぬくらいなら、その前に一回はバカになってみたらいい。」

「ひとつのものに狂えば、いつか必ず答えに巡り合うことができるんだよ」

帯にもあるこの言には、僭越ながら、深く同意するとともに、勇気づけられた。人には、まるで天啓のように何かが与えられることがあるのを、わたしも身を以て知っている。

ロープを手に山に入り、偶然目に留まった椎の木。その土はふかふかして、掘ると温かく、ツンとした匂いがする。自分の畑の土は堅く、冷たい。その根も丈夫で深く根を張っていたが、畑のリンゴの根は太さも張りもなく、「なんだか黒ずんで根の白さがない」

木村さんが福岡正信の『自然農法』を手にしたのも偶然だったし、山で「光り輝くリンゴの木」を目にしたのも偶然だ。しかし、導かれたようにしか見えない。

わたしには長年、夢も何もなく、ただ生き延びてきた。ところがある時、「生きたくなりたい」と思い、それを夢とした。その夢を抱えて生き延びてきて、気がついたら「医療の現状を1ミリでも動かす」という、身に余る夢を抱くようになっていた。

心身同一。心(精神)は体に通じ、体は心に通じる。多くの人に夢を抱かせる手助けをしたいという夢もまた、ある。

世の中で目立つ人のうち、少なからぬ人も、実は同じようなことを考えていたりする。社会を良くしたい、と。それは利害の一致しない人にとっては邪魔者でしかないから、悪しざまに言われがちだ。

「私に出来るのは、リンゴの木の手伝いをすることだけだ。たいしたことが出来るわけじゃない。だけどそれは人間の将来にとって、きっとためになることだって。」

農薬と肥料をまかれた畑の土は冷たく堅く、根も張らない。中医学をやった人なら、ここで人体を連想するはずだ。病んだ体はどこかが冷たかったり、固かったりする。健やかな体は溌溂としているし、生活も健全なはずだ。つまり、現代の農業が、果実や虫や菌をコントロールしようとするあまり、土を冷やし、環境を不健全にしていることと、現代医学が人体をコントロールしようとするあまり、体を冷やし、不健全に導いていることと、そのまま重なる。

活力の強いものは温かく、活力の弱いものは冷たい。農業からも、同じ地点に行き着けるわけだ。なんだか、すごいものを読んだ。まとめられた石川拓治さん、取り上げられたNHKのスタッフの皆様、深く感謝します。

木村さんのリンゴはうまいだろうなぁ!

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