「少年A」について考える時、わたしが少年と同い年であることを意識せずにはいられない。
週刊現代 (2015-06-23)
実際に、わたしは人にはとても言えないようなことをこの少年同様したことがある。もちろん殺人ではない。詳細は拷問でもされなければ言うことはないけど、わたしは一時期、確かに少年と同じように異常だった。やったことの大小はある。でも彼我に明確に線が引けるとは思わない。
あの異常な少年が生きているのと同じように、わたしはまだ生きている。少年はやったことに対する公的な罰を受け、果たした。わたしは公的には何ら罰せられることはなかった。
幸いにして、少年は犯罪を重ねなかったようだし、わたしもしなかった。
「似ている」と思う。「違う」と言うこともできるけど、あえて「違う」と考えることに意味を感じない。良い意味はないと思う。言うまでもなく「同じ」ではない。ただ「似ている」ことを否定したくはない。
人は悪人を裁きたがる。厳しければ厳しいほど意味があると考える。被害者に親身になればなるほど加害者が憎らしくなる。自分自身に置き換えて体が震えるほど怒ったり悲しんだりする。
そんな人の存在を時々意識しては「自分が加害者になる場合について考えることはあるのかな?」と思うことがある。言い訳や自己弁護が赦されないほどの罪を犯すことは、もちろんあんまりない。でも、何かの拍子にし得る。
階段ですれ違う人にわざと肩をぶつける人は、その時に「怪我しろ」「死ね」と思ったりしてないかなと、思うわけです。
「邪魔だからぶつかっていい」
これが異常でなくて何なんだろう?
少年Aとは「似てない」の?
似てると思うけどなぁ。