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スクラップブック 思想

我々は本当に厳しさを嫌っていてもいいのか

テラケイさんの記事だからあまり紹介したくないけど、わたしも同じことを考えていた。しかし、もう一歩か二歩踏み込んで書いてほしかった。二歩目は陰謀論的だけど……。

イチローも警鐘を鳴らした…「大人に叱ってもらえない」Z世代が直面する「やさしさという残酷」(現代ビジネス)

一歩目

一般論として、物事は、ある程度の知識や教養がなければ理解できない。

スポーツはルールがわからなければ楽しめないし、ルールだけ知っていても深くは楽しめない。絵画も、下地がなければ何もわからない。仏像などの遺物もそうだ。

そもそも、日本語がわからなければこの文章を原文で読むことはできない。日本語話者であっても、漢字が読めなければ理解は浅くなる。概念的理解が及ばなくても同様だ。

成長圧力を「よくない」と見なすことは、「物事への理解」や「学び方」を軽視するのと実はあまり変わらない。ここで「軽視なんてしない」と言う左派はただのバカで、自身のその「軽視しない」という価値観がどこから来たのかを考えたことがないんだと思う。その価値観を学ぶ機会や下地、すなわち教養をどこでどのように得たか、思い出してほしい。機会があったから、あなたは左派やリベラルになったはずだ。

成長圧力そのものを奪えば、知識や教養は必ず一定水準未満になる。文章を読むこともできず、重要な概念や知識に欠けていたらどうなるだろうか。悪徳エリートのいいように操られるだけではないか。

今や、厳しさはその種類を問わず単なる悪になった。成長が必要だと確信し自律して努力できる人だけが、富や権力を得られる。他人の幸せを自分の幸せと感じるような人にも、その行動のための富と権力は必要だから、「富も権力も全く不要だ」とはとても言えない。ところが、成長圧力(上昇志向と呼んでも、何でもいい)を悪だとみなせば、例えば左派が社会的弱者のために連帯することも困難になる。現実問題として、文章を書いたりビラを作ったりすることは「無能」では務まらないのだから。つまり、成長圧力を嫌うことは社会の頽廃を望むことと同じだ。せっかく生まれた視聴覚障害者や身体障害者のためのテクノロジーも、富める人々のためのものになるか、単に失われる。わたしたちは本当にそれを望んでいるんだろうか?

二歩目

成長圧力を嫌う人が多数派なら、成長の必要さを知っている人には好機だ。言うまでもない。

この価値観を流通させたのは誰かと問うてほしい。政府を変えたのは、社会を変えたのは「我々」なのか?

わたしは違うと思う。この流れを望んだ権力者がいて、政府に働きかけた。わざとだと思う。原子力発電が「明るい未来のエネルギー」と紹介されたように、mRNAコロナワクチンが「感染症から人類を守る」と喧伝されたように、エリートから民衆に仕掛けられた罠だと思う。

カネも資源も奪われ、がんばる気力もない「我々」に選択の余地はなかった。ただ歓迎した。社会は良くなったか? ならなかった。鞭に対する飴のようだった。今はただ支配が強化されていくのを見ているだけだ。それでもわたしたちは「厳しさはよくない」と言い続けるのか。“闘わなければ状況は良くならない”のではないのか。

この記事が「ただのハラスメントの肯定」に見える人ばかりなら、状況は最悪を迎えている。問題を起こした団体や人を潰して、自分では何もしない。何もできない。それが正しいことなのか。本当は「正しい厳しさ」と「正しい優しさ」を求め、学び、実践すべきなのではないか。

(率直に言って、この話はわたしにとっては難しくない。自分で考えついたし、単純な理屈だし、少し話せば誰でも気がつくと思っていた。でも、実際はそうではないようだ。わたしはバカではないと自認せざるを得なくなった。中医学を学ぶ決心がついたからよかったと言えばよかったけど、カシコは何だか嫌だ)

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